呉智英「吉本隆明という『共同幻想』」(その6)
(暮れから正月にかけて微熱と咳が続き、それがおさまったかと思ったら今度は両足の腱がいかれて歩けなくなってしまった。そのときは気づかなかったが妙な姿勢を何時間も続けたせいであった。いまようやく立つことだけは出来るようになったが、常時痛みを感じ、すっかり気持ちが萎えてしまった。とはいっても、横になっている間頭だけは動いていたから何とか書きつないでおきたいと思っている。)
高橋順一の「吉本隆明と共同幻想」は、高橋と同世代の小林敏明の書評によって、その言わんとするところがほぼ明らかになった。(省エネで申し訳ない)ただし、共同幻想=国家論といってもそれは社会科学と言うより文学の範疇に属するもののようであった。哲学を専門とする学者が吉本の「共同幻想論」はきわめて情緒的な「国家論」だと結論づけたのは意外といえば意外だった。
それはそれとして、脇道もこれくらいにして元へ戻そう。
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さて、呉智英が「共同幻想論」を手にしたとき(大学生の時)、その書名を誤読し、誤解していたという。
その頃愛読していた「少年マガジン」や「少年サンデー」でしばしば、超心理学、空飛ぶ円盤、なぞの古代史、神秘主義などがグラビアページで特集された。これらは、五、六年後の1970年代全般には、それぞれ、超能力、UFO、超古代史、オカルトと、名前を新たにして爆発的ブームになるのだが、当時はその準備段階であった。
自分としてはそんなものを信じていたわけではないが、そうした現象があることに興味があったし、それを信じ込む人々がいることも不思議であった。よく読んだのはむしろ、その事実の解明と盲信の心理を知りたかったからである。
呉智英にとって「共同幻想」とは、いわば、有りもしないことを事実と思い込む人たちの集団心理のことであり、「共同幻想論」とはその集団幻想を論じたものと思ったのだ。
ところが、「共同幻想」とはれっきとした吉本隆明の新造語であった。
それを、呉智英は「共同幻想論」につけられた冗長な「序」を引用しながら次のように整理する。
この論は、「これまでばらばらに考えてきた文学、政治、経済、思想、藝術を統一的に見る試みをしたい」というのが動機であった。
続けて「序」はこう言う。
「その統一する視点は何かと言いますと、すべて基本的には幻想領域であるということだと思うんです。なぜそれでは上部構造というように言わないのか。上部構造と言ってもいいんだけれども、上部構造という言葉には既製のいろいろな概念が付着していますから、つまり手あかがついていますから、あまり使いたくない。」
「上部構造」というのは、僕らの世代にはなじみの言葉で、いうまでもなく唯物論的史観でいう下部構造たる経済が、文学、政治、経済、思想、藝術など上部構造を規定するという考え方のことを指している。
それを吉本としては「幻想領域」と呼んでみたい、というのである。「上部構造」といってもいいが、それは、これまでマルクス主義者の間でさんざん議論され様々な先入主がすでに形成されていて自分の考えがそのワンノブゼムにされることを避けたいという意向が働いてたのだろう、と推測できる。
「ともかく、吉本隆明は、従来、社会の上部構造だと呼ばれていた、吉本用語でいう「全幻想領域」の構造を解明したい。それには、幻想を次の三種類に区分するのがよい、という。
第一が「共同幻想」、国家、法などである。
第二がペアの「対幻想」。すなわち性を核とした一対の男女関係の「幻想」で、家族を形成する。
第三が、「自己幻想」。自己、個体の「幻想」で藝術理論、文学理論、文学分野である。
もし、この通りだとしたら、「共同幻想」は先に言った「有りもしないことを事実と思い込む人たちの集団心理のこと」と誤解される可能性があり、「対幻想」もまた、恋愛における双方の勝手な妄想ととられかねない。また「自己幻想」というのも通常それは自意識過剰者の美化された自己のことであろう。これを「個人の観念」という意味に使うにしても、その説明に「藝術理論、文学理論、文学分野」と並べるのは不適切であり、あえて言えば、表出された評論なり小説なり詩歌なりの作品というべきである。
にもかかわらず「共同幻想」の「幻想」という言葉が文字通りに受け止められなかったことは幸いだった。
これには当時の世相というか吉本流の言い方をすれば「情況」がおおいに貢献した。「共同主観」は前にもいったとおり、メルローポンティや廣松涉はじめ実存主義や現象学の分野ではすでに一般的な言葉であったし、ジャン=ポール・サルトルの「即自」と「対自」の対概念は広く知られていた。つまり、「共同幻想」も「対幻想」も一見して有り得るという錯覚によって、幻惑されるに十分だった。かくいう僕もまた幻惑された口であったことはいうまでもない。
吉本隆明がこのあたりの事情を知らないわけがない。「幻想」によって「幻惑」を誘うことは織り込み済みだったに違いない。
呉智英は、そのことには触れず、例によって悪文を分かりやすく日本語訳する。
「このあたり全部を大まけにまけて、吉本隆明の意に沿って解釈すると、次のようになる。
人間は、物質または経済制度を下部構造とする幻想(観念)の体系を持っている。それは社会全体を束ねる国家や法になる場合がある。これは、社会構成員が共有する「共同体観念」のことなのだが、自分は「共同幻想」と名付けたい。また、男女・家族について考察すると、物質基盤だけではない幻想(観念)がそこに共有されており、これは「家族観念」と呼んでもいいのだが、「対幻想」と呼んでみたい。さらに一人ひとりの個人も幻想(観念)を持っており、小説や詩歌などの文学作品として結実する。これは「自意識」とか「自己表現」と呼んでもいいのだが、「自己幻想」と呼んでみたい。このようにすれば社会の上部構造と呼ばれてきたものは統一的に説明がつく。
と、こういうことなのである。」(P183)
そのような材料をそろえた上で、一体吉本隆明は何をしようとしたのか?
その「後記」から引用する。
「本書では、やっと原始的なあるいは未開的な共同の幻想のあり方からはじまって、<国家>の起源の形態となった共同の幻想にまでたどり着いたところで考察は終わっている。」
吉本隆明は、共同幻想(共同体概念)である国家の原初形を考察した、というのである。
では、何のためにそれが必要だったのか?
(読みにくい文章をそれでも我慢してなんとか読み続けていくと)
「次の二つが、吉本の主張なのだと分かってくる。
第一は、個と全、個人と国家、という問題への回答である。
つまり、個人としての人間と社会の一員としての人間、個人と世界という葛藤である。何故これを論じなければならないのかというと、
「国家とか法は共同幻想(共同体観念)の典型的なものである。それはしばしば個人を圧殺するけれど、それでも個人はそれを支持したりつくり出したりする。そこでは個人の存在目的は存在目的たり得ず、その意味で、個人と共同体は対立する構造を持っている。
この対立構造をどのように考えたらいいか?
「国家、政治などの共同幻想とは別に成立しうる個人幻想(自己幻想)としての文学・藝術、それらは本質的に個人性を持っており、制度としての表現の自由を論じるのではなく、文学表現が本質的に自由としてしかあらわれない」ということである。
その意味で、個人幻想は共同幻想に対して「逆立ち」(対立)していると言うことが出来る。
第二の主張は、男女二人の個人を基本として形成される家族と多数の人によって形成される国家という対比にかかわる。ここでは家族という人間のありようとその意味が強調される。
「吉本隆明が国家などの共同幻想に逆立ちするとしたもう一つの幻想(観念)が男女・家族の観念すなわち「対幻想」である。対幻想は、男女のペアとそこから広がった家族集団の幻想だから、一人の個人幻想と多数の共同幻想の中間に位置する。一面で個人幻想に近く、一面で共同幻想に近い。」
「要するに「二」は「一」と「多」の中間だから、一から多への移行形としてあるか、もしくは一と他に引き裂かれてそれぞれの方に収斂する、ということである。」
以下、引用と要約を試みる。
古来から少なくとも東洋では、家族を国家への移行形と捉えてきた。古く易経にも出てくる「国家」という言葉の構成法に、既にそれが読み取れる。
「修身、斉家、治国、平天下」
つまり、個人が自分の身を修め、次ぎに家族を整え、国を治め、世界を平安にする、という意味である。ここでは家が国へのステップであると考えられている。
一方西洋では、とりわけマルクス主義に代表される進歩史観では、家族や国家の原形を歴史の中に探り、またその到達目標を想定する。
マルクスの盟友エンゲルスは、そうした歴史観から「家族・私有財産・国家の起源」を著した。これは人間の社会を規定する三つの主要な制度の起源を論じたものである。
この著作は、十九世紀当時盛んになった人類学の研究者、アメリカのモルガンが著した「古代社会」に依拠したものである。
エンゲルスは、ここに取り上げられたアメリカインディアンの社会に「原始共産制」と「乱婚」を見たのである。そして、人類史の原初の時期に、私有財産もなく抑圧的な家族制度(道徳主義的な一夫一婦制、家父長制、因習婚など)もない、貧しくはあるが、素朴で満ち足りたユートピアを「自己幻想」したのである。この原初の理想郷が、豊かで便利で文明的なユートピアとして歴史の彼方に再臨する、というのが共産主義である。そのときこそ、フランス革命の目標であり、人権思想の中核である自由と平等は完全な形で実現し、人間性の全面開放となってあらわれる、とする。(これに一理や二理はあるが八理も九理もあるとは思わない。)
エンゲルスにおいては、家族と私有財産と国家はいずれ解体されるべきものである。吉本隆明の言い方では「自分という存在を圧殺する負担」だからである。しかし、吉本はこの三者をひっくるめて「負担」とする考えを否定する。国家は自分という存在に「逆立ち」する「負担」である。だからその負担を解体する方向で「共同幻想論」は書かれている。しかし、私有財産については吉本の判断ははっきりしていない。
(ここで、埴谷雄高とのよく知られた論争を思い出してみよう。著作が売れて印税が入るようになった吉本が、家を建て、コム・デ・ギャルソン=流行のファッションに身を包みマスコミに登場するようになったのを資本主義のぶったくり商法に荷担していると埴谷が批判したのに対して、自分でかせいだ金で何をしようと勝手だと反論したところを見ると、「私有財産」を否定しているわけでないことが読み取れる。と、呉智英は判断している。)
もう一つ決定的にエンゲルスと違うところは、家族論である。
先に見たように、「対幻想」の「二」は「一」と「多」の中間だから、一から多への移行形としてあるか、もしくは一と他に引き裂かれてそれぞれの方に収斂する、という性格を備えていた。
家族観念が部落の共同体観念に一致するためには、家族意識の空間的拡大が必要である。(つまり、「多」の方向に向かうための契機のこと=先に見た高橋順一の「夫婦というペア」ではなく『兄弟姉妹』の対幻想こそが「共同幻想」へ向かう結節点であるとする点のことである。)
しかし、家族観念といっても、これが夫婦のままでは空間的拡大は難しい。一対の男女である夫婦は内閉的観念空間を形成する、夫婦も共同体であるが、そこに見られる共同性とは別個の共同性である。
ここから吉本は、国家という共同体に収斂されない「対幻想」」に注目しこれを重視する。
このようにして吉本隆明は「共同幻想論」で、エンゲルスばりに「家族。文学、国家の起源」を論じた。そのうち文学は本質からいって、国家に対して「逆立ち」する。そして、家族は男女のペアという面に着目すれば国家に合体しない。それ故、この二つは国家という怪物に拮抗しうる障壁になる。これが吉本の主張であった。
こうした論が六〇年代後半の若者に理論的にではなく感覚的に好まれたのは、吉本の主張は民主主義そのものであり、自分たちの生き方を肯定的にとらえているという実感めいたものがあった。そこには繁栄があり、私生活があり、進歩があり、しかも人間性解放という理想までがあった。
そして、呉智英はつぎのような疑問を呈して、「共同幻想論」の項を終える。
だが、文明論的に考えてみれば、これはただ「個」という欲望、「男女」という欲望に無限の期待をかけただけではないか。欲望はまちがいなく社会を豊かにする。欲望こそが豊かさの原動力である。しかし、その果てにユートピアが来るのか、荒廃と破壊が来るのかは、容易に答えは出せないのである。
呉智英も悪文と格闘してお疲れの様子で、歯切れの悪い結論にしてしまったようだ。
そこで、僕が吉本関連では名著だと前にいった橋爪大三郎「永遠の吉本隆明」(洋泉社新書、2008年、吉本存命中)から少し長い引用をしよう。
「ヘーゲルの弁証法は、まず意識からはじまります。対象意識があり、自己意識が生まれ、欲望の主体となって市民になる。そこでは、みんな、自分のことしか考えない。しかし、そういう市民が集まると市民同士の利害が矛盾し、その矛盾から、意識はさらに高次の段階に進んでーーここではホッブスに似ていますがーー国家というものが出てきます。国家も、やはり意識のかたち、その高次なかたちなのです。
どうして市民の集まりから国家が出てくるのか。ここは自己幻想と対幻想から共同幻想が出てくるという論理とよく似ています。そして、吉本さんのロジックは弁証法なのです。そういう意味でもヘーゲルと似ているんですが、でもヘーゲルは、逆立ちとはいっていないのです。
吉本さんが逆立ちということには共同幻想などなくても、自己幻想と対幻想さえあれば人間はやっていけるという楽天的なオプティミズムがある。これが「大衆」だと思うのです。一人ひとりの生活者が、自分のことだけを考えていけば社会は成り立つんだよ、というメッセージなのです。権力をなくすには、これしかないわけです。このように「共同幻想論」は、権力をなくしても人間は生きてゆける、社会は成り立つということを、理論化した著作だと、私は思うのです。」(P59~60)
「大衆の原像」をうまくあしらって、国家権力をなきものとしたい吉本の意図を解説したものとしてわかりやすい。
僕なりに付言すれば、
共同幻想=上部構造だといっているのだから素直に読めば「共同幻想論」は「上部構造論」ということである。
「上部構造」はその時代の「下部構造」すなわち経済活動の様相によって規定されるというのだから、それは常に「個人」と「家族」から出発して「上部構造」に至るという道筋を通るわけではない。「個人」にしても「家族」という考え方も既に、上部構造の一部だからである。
エンゲルスのいうように、アメリカインディアンの暮らし方を一つの理想とするなら、それを実現していない現実社会すなわち上部構造は個人や家族と対立すると言ってもいい。しかし、現実の国や法=上部構造が、常に個人と家族と対立するという仕方で存在するだろうか。確かに何かをしようとして国家や法が立ちはだかることはあるとしても、逆に個人の自由や家族の権利を守るのも国であり法である。どちらにしろ国や法の存在を自らが認めているからに他ならない。
また、「個人」や「家族」が常にフロイト的欲望のもとで生きているというのは全くの迷信で、その時代を生きる人々によって「個人」や「家族」の概念は相対的流動的に変化している。戦前と戦後の民法がまるで違ったのを見れば明らかである。
どうもドグマにとりつかれたような印象なのである。
さて、橋爪大三郎によれば、吉本隆明は「無教会派の祭司」である。
(スターリン主義などの)マルクス主義の正当性をめぐる争いをカソリックとプロテスタントの分派活動にたとえて、教会はなくても信仰は可能だとした無教会派に似ているというのである。聖書と祈りさえあれば個人の信仰は神に近づく道の一つとした 内村鑑三らで有名な無教会派である。
「キリスト教のそれまでの常識は、悪魔とか国家とかあるわけだから、教会を作らなければ信仰を守ることが出来ない。しかし個人に立脚するならば、個人と思想があれば、理想を追求するのに何の問題があるだろうか。社会主義・共産主義にとって、権力は究極的に否定されるのですが、しかし、それを手段として認めないということになると無教会派にならざるをえず、テキストと祈りという形式になる。」
吉本のそうした態度が、当時の知識学生に与えた大きな影響は二つあるとしている。
「一つは、万能の批判知識が手に入ることです。」
現実の共産党や新左翼党派は、権力を手に入れようとして必ず失敗する。だから個々人はそれに加わらないことで、彼らに対して優位に立つことが出来る。しかも自分はテキストと祈りの生活をするのだから自分の知的活動を肯定できる。かくして、非政治的なことが政治的に正しい態度であるということになる。
もう一つ、同時にこの裏返しとして、まったく無能力の状態に陥ってしまう。現実との接点をもてなくなるわけだ。しかし、いずれにしても生活者として生きて行かざるをえなくなる。そうすると、信仰と祈りの生活ではなく世俗の生活が待っている。
しかし、それでもいいんだという最初の自己肯定があったために、それが一種の「転向」であったことは忘れて図々しくふるまう。それが団塊の世代が嫌われる要因であった。ぶうぶう文句を言いながら、現実を肯定する態度の鈍感さは、吉本の影響力の帰結するところであったというのである。
「社会主義・共産主義思想を、個人の資質から考えて個人化し、権力という概念を問題化し、それを否定的に位置づけ、そして破壊してしまった。革命を現実の課題としなくなった。」そういう点が吉本隆明の画期的なところだと橋爪大三郎はやや皮肉を込めて評価する。
これは、かつて呉智英が、吉本隆明は、共産主義に片足を突っ込んだふりをしながら、それ自身を批判するという絶妙な立ち位置にいるといったことと相通ずるところがある。それは自分は絶対に批判を浴びないという絶妙なポジションだからであった。
さて、つぎは、見田宗介と加藤典明の対話を引用して、短く僕の言いたいことを言って終わりにしようと思う。ここまで一気に書いたので、不備があったかもしれないが、病み上がりでいささか疲れてしまった。次回はなるべく早くしようと思う。
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