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2012年12月25日 (火)

呉智英「吉本隆明という『共同幻想』」(その3)

吉本隆明で唯一苦労しながら読んだのは「共同幻想論」であった。

というのも、モーリス・メルロ―ポンティの「共同主観性」(間主観性ともいう)を勉強していた時期であり、そのタイトルに興味を持ったからである。

むろん、共同幻想とは「国家」論であり、現象学や実存主義とは縁遠いものであった。

その書き方は、詩的な言語で満たされていたが、学問的な緻密さに欠け、結局結論は、難解、晦渋な文章の霧の彼方に消え去っていると言った印象を持った。

同時期、岩波の「思想」に連載されていた廣松涉の「世界の共同主観的存在構造」を読んでいたが、「国家という共同幻想」に至る議論の道筋として、その「認識の四肢的構造連関」のほうがはるかに精緻で、学問的にも意義深いと思っていた。

要するに、「共同幻想論」は在野の思想家の議論として耳に入れておく程度のものと僕は思っていた。

こう書くと怒るものも出そうだからいっておくが、「在野」が必ずしも程度が低いとはいわない。

もしもほんとうにそれが「すごい」というなら、それはあらゆる批判にさらされて、それでもなお評価すべき点があると確認されなければならない。

ところが、当時「共同幻想論」が「すごい」というものはごまんといたが、まともに読んで正当に評価したものはほとんどいなかった。まして、呉智英もいっているが、外国語に翻訳されたことも(英語でさえ)一度もなかったのである。

だからといって、アカデミズムが正当かといえばそんなことはない。

ついこの間までアカデミズムの中にいた作家の小谷野敦が書いているが、一時期日本の思想業界を席巻していたポストモダンについてもっともな批判をしている。

「ところで、私がラカンについて書いたことを読んでびっくりした人がいるかも知れないのでいっておくが、いわゆる「フランス現代思想」とか「ポストモダン」とか「ニューアカデミズム」とかでもてはやされた「思想家」というのは、学問的にはほとんどインチキである。その中では文化人類学者のレヴィ・ストロースくらいがまともな学者と言えるくらいだ。
ラカンの他、ジル・ドゥルーズ、クリステヴァなどは、文章を論理的に読むことができない。ソーカルは、これら「思想家」の文章の中から、特に訳が分からない部分を抜き出して批判したが、浅田彰とか東浩紀とか、そういう思想家を持ち上げてきた日本の批評家たちは、この問題について何の総括もしていない。」(「日本文化のインチキ」幻冬舎新書)

僕も、一時ドゥルーズ&ガタリについて言及するエセーに遭遇することが多くなって、一体どんなことを書いているのか「アンチ・オイディプス」「千のプラトー」を手に取ったことがあった。この大冊を家の裏にあった図書館から一年あまりの間、かりては戻しを繰り返して読んでみたが、理解できなかった。翻訳の悪さもあったのか文章の論理構造が見えないのである。悔しいから、解説本やら新書版やらを片っ端から手に入れてみたが、この本に書いてあることは生きていく上で、ほとんど何の役にも立たない代物だと断じざるを得なかった。

これを大学生の必読書に入れるのは間違っていると書いたら、読んでもいないのに、そういうのは無責任ではないか、などなどの批判を浴びることになった。

ソーカル事件が、明らかな証拠である。こういう、新しいものに飛びつくのは思想業界で食っている大人がやることで、若いものには勧められないことである。

この文章では、最後に「共同幻想論」について呉智英がどのようなことをいっているか紹介して終わりにしようと考えていた。

ところが、事態は思いがけない方向に展開してしまおうとしている。(変な言い方!)

前回、「共同幻想論」に行きかけて途中で止めたのは、学生時代の友人たちと打ち合わせがあったので、出かけたせいであった。

少し時間があったので、池袋のリブロに行ってみた。

書棚に「吉本隆明」とあったのは、最近亡くなったせいかもしれないが棚に命名するほど相変わらず盛況なのである。

そこで、何冊かぺらぺらやっていたら、思いがけなく書きたい衝動がむらむらわいてきた。

いや、書評をしようと大胆なことを考えたわけではない。

「吉本教」信者とはどういうものか少しばかり紹介して、呉智英「吉本隆明という『共同幻想』」に花を添えようと思ったのである。

次回はそれをしようと思う。

つづく。



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