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2011年2月24日 (木)

「ミレニアム」を読んだぞ!

Millenium 「ミレニアム1 ドラゴンタトゥーの女」(「ミレニアム」シリーズ3部作の1、スティーグ・ラーソン、早川書房 2008)を読んだ。ついでにシリーズ全部を読んでしまった。

 

経済誌「ミレニアム」の編集者で記者のミカエル・ブルクヴィストは、スウェーデン有数の企業グループを率いる実業家ヴェンネルストレムの不正を追及する記事を掲載、逆に名誉毀損で訴えられる。ニュースソースには、ねつ造されたものが含まれており、ミカエル・ブルクヴィストは、反論するまもなく敗訴、禁固三ヶ月と罰金刑の判決を受けて控訴を断念する。
長年培ってきた記者生命が危うくなり、雑誌に対する信用も傷ついた。ヴェンネルストレムの反撃は、広告主への無言の圧力となって「ミレニアム」の経営にもおよんだ。
そうした中、密かにこのミカエルの身辺調査をするものがあった。警備会社ミルトン・セキュリティと契約するフリーランスの調査員リスベット・サランデルである。身長150cm体重40kgあまりのがりがりにやせたまるで女の子供の体躯、耳と鼻と舌にピアス、背中にドラゴンのタトゥをいれ黒い革ジャンを羽織って歩くといういでたちだが、その中身は頭脳明晰で文章能力に優れ、そのうえ凄腕のハッカーでもある。しかし、無口で著しく社交性に欠け、孤独で一風変わった生活をしている。
やがて、ミカエル・ブルクヴィストに、かつてスウェーデンの代表的な企業グループを率いて今は引退したヘンリック・ヴァンゲル前会長から奇妙な依頼が舞い込んだ。ヴァンゲルグループは、今でこそ勢いを失っているが、かつては大戦前からスウェーデン各地に様々な事業を展開し、国の経済発展に貢献してきた。
ストックホルムから電車で三時間あまり北上したヘーデスタ市と橋一本でつながっているへーデビー島にヴァンゲル一族は住んでいる。
暮れも押し詰まったある日、ミカエルはここを訪ねた。依頼というのは、ヴァンゲル家の歴史を書いて欲しいというものだった。それは表向きの理由で、実は38年前に失踪した兄の孫娘ハリエット・ヴァンゲルの行方を捜して欲しい、いや、自分としてはもうすでに死んでいるものと思っているが、もしそうなら誰がなぜ殺したのか調べて欲しいというものだった。ヘンリック・ヴァンゲルは、このなぞを追跡してすでに半生を費やしていた。
調査期限は刑期である三ヶ月の期間も含む一年の間、延長も有り得る。報酬は、罰金刑の金額を払ってもなお十分手元に残るだけのものを支払うというもの。何よりも、この仕事を成し遂げたらヴェンネルストレムを追い込むだけの情報を提供しようという条件が魅力であった。
世間的にみても「ミレニアム」の編集部から一時的にせよ離れた方がいい。引き受けない理由は何一つ見あたらなかった。年が明けてまもなくミカエル・ブルクヴィストは、ストックホルムから事件の舞台となったへーデビー島に移り住む。

 

小説「ミレニアム」は、スウェーデンのジャーナリスト、スティーグ・ラーソンが初めて書いたミステリー三部作で、この「ドラゴンタトゥーの女」はシリーズ第一作である。
島への唯一の通路である橋が通行不能になると言う、いわば密室殺人あるいは密室行方不明事件と言う要素と、名門一族の歴史と複雑な人間関係に過去の連続殺人事件が絡むという、やや古典的ではあるが本格ミステリーの要素で構成されている。

 

こういうものを読むのは何しろ随分久しぶりで、なぜその気になったかと言えば、書評で面白いと紹介されていたのに出会ったこと、その後本屋で大量に平積みされているのを発見したことからであった。純文学の評判のいいのは、大概信用ならないから全く読まないが、ミステリーはその限りにあらずである。それでも少なくともここ十年ぐらいは興味の外にあった。だから、ミステリー好きには「おい、おい」と言われそうだが、フォーサイスやジョン・ル・カレ、クィネル、アーチャー、フリーマントル、ロバート・B・パーカーなどの時代から一歩も進んでいない。記憶に新しいところでは評判につられて読んだ「ダヴィンチ・コード」一冊ぐらいか。

 

この「ドラゴンタトゥーの女」は、作家のデビュー作らしく、取りあえず型にはめて書こうとしたところが出ていて、道具立てはかなり古典的、例によって聖書の記述も取り入れられているところはいかにも西欧の謎解きミステリーである。
そこは、どうも僕の好みではないが、背中にドラゴンタトゥーを彫っている、喧嘩とコンピュータにめっぽう強いヘビメタ風ファッションの小柄な女性リスベット・サランデルが、なにやら曰くありげな過去を背負っていて、まか不思議な魅力を発散しているところがいかにも小説的で面白い。
実際、ミカエルが主人公だとして始まった話は、シリーズ2と3ではリスベット・サランデルの存在そのものが物語の中心となって、スウェーデンの人権問題や反民主的陰謀をえぐり出す社会派冒険ミステリーとなっていて、十分なリアリティを確保している。シリーズ1の古典的ミステリーとは似ても似つかぬこの展開は、ジャーナリストである作者スティーグ・ラーソンがむしろここで本領を発揮したと言うことであろう。

 

これ以上ミステリーとしての面白さを紹介する記事は、すでにたくさんあるのでそちらにまかせることにして、僕はこの小説を読んで実に意外に思ったことがあったので、そのことについて書き付けておこうと思う。どうも僕らは、スウェーデンについてはなにも知ってはいなかったらしい。
この本の扉には、スウェーデンの成人女性の四割以上が、同居する男性または親しい関係にある男性に恒常的な暴力を受けていると書かれている。もちろん物理的な暴力とは限らない。大きな声でののしり脅すと言うのも立派な暴力であるからこれも含む。あの身体のでかい欧州人が興奮したら、それだけで凶器になるという考え方もなり立つかも知れない。
スティーグ・ラーソンは、政治的には極端な国家主義やネオナチ、移民排斥運動などの行動的な極右に対して常に反対を表明してきた左翼リベラル派としてヨーロッパでは知られた人物であった。そして、長年ジャーナリストとして、この男性の女性に対する暴力に反対する意思表示を続けてきたという。 二つは当然関連している。
その背景にはスウェーデン人の間に根強く潜在する男尊女卑の考え方があるというのだ。

 

男尊女卑と言えば、我が国でも戦前までの社会をやり玉に挙げて、 戦後の民主主義社会ではもっとも克服されるべき悪しき価値観の一つであった。「おんなこども」などと表記したら警察こそ来ないまでも、どこやらの人権団体や弁護士、政治家などが飛んできて糾弾されかねない大事になる、かもしれない。差別用語の言葉狩りというのは形式主義で潔しとしないが、ともかく我が国ではあからさまな男尊女卑は無教養のそしりを受けなければならないものとして定着した感がある。 戦争に負けたからよかったことの一つに数えてもいいくらいである。
戦争に負けなかったせいでもあるまいが、スウェーデンでは男の方が女よりもえらいと未だに思っているらしい。しかも、理由はともかく身体の大きい男がひ弱な女に暴力をふるって平気である。「葉隠」にどう書いているか知らないが、武士道精神から言って許されることではないという気がする。

 

あの北欧の、社会保障のもっとも進んだ国、世界中が範とするべき福利厚生の制度を実現したスウェーデンにおいて、半分近いカップルがDVの状態にあるなんて、俄には信じられない思いである。
僕の家の回りには狭い通りを挟んで十軒ほどの家があり、特に親しい者もいないが、道で会えば挨拶する程度の知り合いである。以前、子供が小さい頃、近所に大事にしていたRV車のボンネットを砂でこすったのはお前の息子だろうと怒鳴り込んできたばばあ、もとい老齢の女性がいたが(これはえん罪で実に不愉快だった)今は引っ越して、おおむね回りは Good neighborhood と言ってよい状況である。家の中で何が起きているかなんて知らないが、向かいのベンツが止まっている家やその一軒おいて隣のAir Mac を飛ばしている家や二軒隣の若夫婦の家、その隣の外国人一家の家でDVがあったとすれば分からないはずはない。顔にあざを作ってうつむき加減に歩いている奥さんを見たこともなければ、怒鳴り声を聞いたことも警察が呼ばれたのも見たことはない。
もしここがスウェーデンだったら、僕は確実に四軒ぐらいのDVが行われている家を発見していたことになるのである。それが異常だと思うかどうかはスウェーデン国民の判断に任せざるを得ないのだが、少なくともスティーグ・ラーソンは、その状態を許せないとして、物語を書き進めていく土台の部分にこれを持ってきたのである。
「ドラゴンタトゥーの女」では、若い女が忽然と姿を消した背景にDVを配した。また、リスベット・サランデルの謎めいた過去に、実は母親に対するその夫の壮絶な暴力があったことを続くシリーズの中で明らかにしていく。
50年代の輝ける米国のライフスタイルにあこがれ、やがてそれがチャンスの国ではあっても恐ろしい格差社会であり、戦争好きの勝手な国だと知れて幻滅した。その後、僕らの前に登場した「ゆりかごから墓場まで」の高福祉国家、かつフリーセックスの国スウェーデンは、それこそ僕らの理想とするところではないかと思わせた。
ところがである。どんなものにも光と影はあるものだ。なあんだ、スウェーデンだって一皮むけば僕らとたいした差はないではないか。いや、今時男尊女卑を克服できないなんて、遅れてる!
そう思いたくもなるが、しかし、僕らは明治以来西欧が理想で、それを仰ぎ見るくせがあった。今度はさげすんでもいいと言うことではない。光り輝く部分があれば、その影に隠れる部分もあるというだけのことで、人間にたいした差はもともとないと思えばいいと言うことである。
実態については「ミレニアム」三部作を読んでいただきたい。

 

「フリーセックス」は一時北欧について何かものを言う場合に、にたにた笑いとともに口の端に上ったものだが、それが何を意味していたのかサッパリ分からなかった。今思えば、単に性教育が進んでいただけのことを性的放縦を期待し誤解したのかも知れない。
米国の性革命は60年代に起きたが、これはウーマンリブの運動に代表されるように男女同権を主張するものが主流であった。学生運動の時代と重なる。当然我が国にも多大な影響があった。中ピ連(中絶禁止法に反対しピル解禁を要求する女性解放連合)というのが活躍して随分世間を騒がせたが、結局嵐のように過ぎ去って後にはなんとなくむなしさしか残らなかった。
このあとイヴァン・イリイチの「シャドーワーク」がでて、ヴァナキュラーなジェンダーが議論され、最近では脳の研究が進んでフェミニズムの世界も変容していくが、これらの運動によって、少なくとも世界の先進国においては、女性蔑視の傾向は確実に改善の方向へ向かうことになったといってよい。

 

「ミレニアム」について、フリーセックスを云々する気はさらさらないが、異常なほど互いに貞節を要求する米国流の男女関係に比べれば、主人公ミカエルの行動は実に軽々としている。それがスウェーデン流なのかどうかはわからないが、この本を読んで驚いたもう一つのことがらである。

 

ミカエル自身は娘を一人もうけて離婚している。学生時代から一緒だった編集長エリカとは彼自身が結婚している間も関係が続いていた。エリカには美術専攻の夫がいて、ミカエルとの関係はこの夫公認である。つまり、妻が他の男と寝ていることは許している。これがまたそれぞれ離れられないない仲というなんだか複雑な人間関係なのである。ミカエルの妻は、この状態に耐えられなくて離婚したことになっている。
ミカエルは、エリカとの関係を保ちながらヴァンゲル家の女性たちのうち二人とも別々の時期に親密な関係になる。リスベット・サランデルとも関係するが、これはものの弾みという感があって持続しなかった。 さらに、事件を追及する中で出会った女性警部から誘惑され、あっさりとその気になるのだがこの関係はエリカとは別に長く続きそうな予感がする。
リスベット・サランデルの方は、気が向けばレズビアンの友人と夜をともにすることがあり、旅行先のホテルで行きずりの男を誘惑したり、街で出会った年下の男とも関係する。
こういうことをつらつら考えると、男も女も、性欲には実に忠実に正直に行動しているということであり、ハリウッド映画などにみる倫理観、くだくだ浮気の理由を考えるような後ろめたさはほとんど感じない。そういう感情が全くないわけではないと思うが、ともかくこういう感情のハードルは低い。
このハードルの低いところが、ひょっとしたら、フリーセックスということなのかもしれないと、この本を読んで感じた。

 

作者スティーグ・ラーソンは、「ミレニアム」三部作を書き上げたあと、2004年に心筋梗塞で突然なくなってしまう。世界三十カ国以上で翻訳され一千万部を売り上げるベストセラーになったが、彼は本の出版も、この大成功も見ることなく逝った。
最初、五部までを構想していたが、残されたパソコンには第四部の草稿が入っているらしい。
三十五年間一緒に暮らしたエヴァ・ガブリエルソンには一銭も印税が支払われなかったと言うが、この草稿をめぐって、ラーソンの遺族と争いになり、第四部の出版は絶望的と言うことである。続けて読みたいところであったが、惜しいことである。

 

 

 

 

 

 

 

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