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2010年12月10日 (金)

「井上ひさしさん、お別れの会」の近代文学史(改題)

劇評「水の手紙」「少年口伝隊一九四五」を書いている時に、「井上ひさしさん、お別れの会」で、丸谷才一が弔辞を述べたことを知って引用しようと思ったが、内容に少し違和感があったので思いとどまった。
朝日新聞が伝えたもので、全文はいずれ四冊目になる「挨拶文集」に載るだろうが、以下は記者がまとめたその要旨である。

「皆さんもそうだと思いますが、思い出すことが多い。人柄が魅力的だったし、口にすることに中身があって、愉快で面白かった。しかし私が語らなければならないのは、日本文学史における井上ひさしの位置でしょう。
平野謙は、1930年代初頭の日本文学について芸術派と私小説とプロレタリア文学が並び立っていると見た。この図式は現在にもあてはまるのではないか。
  芸術派にあたるのはモダニズム文学で、代表は村上春樹の、アメリカ批評の用語で言えばロマンスでしょう。私小説は、作者身辺の事情に好んで材を取るという 意味で大江健三郎ではないか。そしてプロレタリア文学を受け継ぐ最上の文学者は、井上ひさしに他ならない。その志は一貫して権力に対する反逆であり、常に 弱い者の味方だった。
 彼は高い知性の持ち主だったけれど、いつも大衆の一員であった。そして、この劇作家の内部に俊敏で鋭くて賢い批評家がひそんでいた。
  この批評家としての能力が、昭和史という悲しい題材に立ち向かったとき、一連の歴史劇が生まれた。民族の愚行をしめやかに嘆きながら、満州事変から8月 15日までの死者たちの分まで、我々は幸せに生きなければならない、彼ら死者たちに対するそういう責任を今の日本人は果たしているか、と問いかける。
 その痛烈な問いかけを、ひさしさんは例のおもしろい趣向、あたたかい思いやり、笑いと涙、たくさんの歌と踊りと一緒にして差し出した。
 私たちは井上ひさしの芝居を見物し、拍手喝采したことを、後世の日本人に対して自慢することになるでしょう。」

大衆の一員であろうとした劇作家にして小説家、しかも鋭く俊敏な批評家でもあったことや、戦争と敗戦の意味を問い続けた一連の作品が、工夫を凝らしたおもしろい芝居であり、それに立ち会うことができた同時代人としての幸福を語って、井上ひさしの死を悼む言葉としてはこれ以上簡潔にして的確なものはないと思った。
僕としては、この部分だけを紹介するだけでもよかったが、「プロレタリア文学を受け継ぐ最上の文学者」という言葉に何か同意できないものを感じて引用を躊躇してしまった。丸谷才一としては、この際、日本文学史における井上ひさしの位置をさだめることが自分の責務だと感じていたわけだが、そのとき、いまから八十年前の「図式が現在にもあてはまる」として、わかりやすいと言えばその通りだが、どうもおおざっぱなことで済まそうとしていると思った。その間の日本文学史を俯瞰することは省略してしまったらしい。ここでは、取りあえず適当な尺度もないから手元の物差しを持ち出して強引にあるいは間に合わせに当てはめてみたという感じがするのである。
だとして、それも無理からぬことである。何しろ日本の近代文学を歴史として論じたものの最も新しい業績は、平野謙であり本多秋五あたりで、それは1970年代のことである。それから四十年近く様々な状況を通過してきた現代文学史の見取り図を描くことは、それだけで十分難しいことになりそうである。
日本の文学、とりわけ小説(純文学に限定してもいいが)は、高度成長期からバブル期、そして長期低迷期という時代とともに、戦前戦後に活躍した作家たちが退場し、戦後生まれの新たな書き手が登場するも、それまで文学が果たしてきた役割は変容しつつ、その影響力も衰退していった。
全国に無数にあった同人誌がなくなり、文芸誌の発行部数もすでに一誌5,000~15,000部(全国の図書館の数は約5,000)という状態である。(大衆文学の月刊誌の老舗「オール読み物」は約10万部)一説によると文芸誌の読者は三百人(大塚英志の言)という極端な見解まである。文学の中でも短歌や俳句は、一般のたしなみとして文学史とは別の場所に一定の位置を占めて長らえているが、現代詩はすでに風前の灯火である。
こうした中で、まるで何事もなかったかのように、昭和初年の文学の三つの潮流が現代にも流れているというのはかなりの便宜主義、思想の省エネではないかと思ったのである。この点は、いずれ誰かが論じるはずだからいいとしよう。
僕は、研究者でもないのにあまり偉そうなことはいえないが、取りあえず二つのことはいえると思う。
まず、ここで言う私小説については、文学の方法として、さんざん批判されてきたもので、いま私小説というものを探す方が困難である、ということだ。
小林秀雄はじめ当の丸谷才一も、いや戦後の文士や批評家のほとんどが、私小説は外国に例を見ない日本独特の形式であり、作者の心情の吐露や心象風景を描いても普遍性を確保できない、つまり文学になりはしないと退けてきたものである。
僕は当時はまだ子供であったが、いなくなった女の布団を抱きしめてその匂いを嗅いでいる男の話は価値が低く、それほど非難されるものかと思った。第一、どんな小説だろうと突き詰めていけば、作家の心の中にあるものを言葉に置き換えて紡ぎ出すものである以上、私小説的でないものなどあるのだろうかという素朴な疑問を抱いたものだ。ただし、読んで面白いものはいいが、おおむね話が面白くない、退屈といったものが多かったような気もする。(いま思えば、私小説批判というよりも、書いた本人の生活ぶりを知っている批評家の、作品に対する偏見ではなかったかと、嫌みを言いたくなるくらいだ。)
おそらく明治期に、Literature、Novel、Poemといったものが入ってきた時に、我が国文人も大急ぎでこれに匹敵する文化を創り上げなければならないと思って試行錯誤しているうちに、真っ先に編み出されたのが我が心象風景を綴る形式だったのではないか。何しろ言文一致が成立するのはようやく20世紀に入ったばかりの頃で、「布団」が発表されるのは1907年のことである。
それはともかく、あれほど批判されたために、戦後の文学から私小説に分類される類の小説はすっかり駆逐されたように思える。作者が、自分の私的な出来事をできるだけ書かないように、いや、この点だけは死力を尽くして覆い隠し、隠しおおせていると確信しなければ作品を発表しなかった。いいかえれば、私的な動因であっても普遍的な主題に到達しているという確信がなければ、作品にはならなかったし、読む側もそのようなレベルにない小説は評価しないというところまで、我が国民のリテラシーは成長したのである。
「作者身辺の事情に好んで材を取るという 意味で」私小説の系譜に入れられた大江健三郎も、自分が私小説を書いているとは思っていないだろう。
僕は「芽むしり、仔撃ち」「死者の奢り」「飼育」などの初期の頃から読んでいたが、「個人的な体験」で驚き「万延元年のフットボール」で回復するも「洪水は我が魂に及び」で困惑してから読めなくなってしまった。「(翻訳調の読みにくい文体で)サルトルの口まねしている、十二才で成長が止まった青年」と酷評したのは会田雄次であったが、僕はむしろ現象学や実存哲学の文学的展開に興味の対象が向かうことを期待していた。しかし、作家には書かねばならないあるいは書きたい主題が新たにできたのである。
あれ以来もう何十年も読んでいないのだから、いまどういう地点にいるのかいえる立場にないが、大江健三郎を私小説の潮流にいれるのは、私小説というジャンル自体が否定され尽くした以上はじめから無理な話ではないか、と思う。したがって、大江健三郎には文学史地図の他の位置に場所を用意しなければならないと思うのである。
僕と同じ疑問を持った人がいて、この大江の継続的な読者らしい人(匿名)の言葉を借りて、第一の言いたいことを締めくくることにする。
「・・・大江健三郎さんを「私小説」の系譜に入れる文学観に、驚き、軽い違和感を覚える。
『個人的な体験』以来、障害を持つ子供との共生が一貫した小説の構図になっていること、それは正に「身辺の事情に材を取る」ことなのだろう。
一 方では大江さん自身は「想像力」の重要性を言い続け、ある意味方法論として自らを呪縛するほどの虚構空間の広がり(神話的空間への憧憬と言っても良い)などは、私小説の対極あるいは「私」の向こうに突き抜けたところに在る永遠なり滅私の祈りのようなものなのだと思っている。」(http://ameblo.jp/warm-heart/entry-10580404032.html)

サルトルの著作に「イマジネ—ル(想像力の問題)—想像力の現象学的心理学」がある。経験的なことから想像の世界へと飛翔する「意識」の構造を扱っているが、会田雄次がなんと言おうと、おそらくこのあまたある私小説論を粉砕しかねないサルトルの思想が初期の頃から一貫して働いてきた大江の創作の駆動力だった。

第二に、プロレタリア文学についていえることは、これもすでに絶えて久しい時間が経過しており、井上ひさしの態度が、「権力を憎み、弱者の味方」という点では同じ構図に見えても、その背景はまるで違う景色になってしまった、ということである。
30年代のNAPF(Nippona Artista Proleta Federacio 全日本無産者芸術連盟)に集まった作家たちの思想信条としては社会主義リアリズムがあり、政治的なバックボーンに国際共産主義があった。激しい弾圧と転向という精神的なダメージをくぐり抜けてなお戦後までその流れは続くが、スターリン批判のあたりから急激に衰退し、世代交代も遂げられずに影響力を失った。
井上ひさしには、不破哲三との対談『新・共産党宣言』があり、また彼は日本共産党のシンパであることを公言していた。二度目の結婚相手は共産党の代議士、米原昶の二女であったことから系譜としてプロレタリア作家に入れられてもおかしくないと思われるかも知れない。
しかし、プロレタリア文学の本質はイデオロギーであって、井上ひさしにはそれが全くと言っていいほど見あたらない。若い頃から学生運動にも労農運動にもかかわった形跡はない。マルクスも共産主義も作品を生み出す動因にはなっていないのだ。
では、なぜ「権力を憎み、弱者の味方」であり続けたのかと言えば、おそらくそこには原体験とも言うべきものがあったと僕は考えている。
井上ひさしは、四十いくつの戯曲を書いた。そのうちの三十五、六の芝居を見た(中には複数回見たものもある)ものとしていえば、おそらく八月十五日の痛切な体験が井上ひさしの思想のコアな部分を形成していると思う。
彼は、十才で終戦をむかえた。この年齢は微妙である。十六才の小沢昭一は死ぬ覚悟で海軍兵学校に志願し、半年もしないうちに終戦で心が萎えてしまった。二十歳の丸谷才一は「どうせこの戦は負ける」と思っていたから終わってほっとした。
徹底した軍国主義教育をたたき込まれ、芯から鬼畜米英と戦ってお国のために死ぬ覚悟でいたものが、今日からはアメリカさんと仲良くしようと言われた小学生の心に芽生えた不信感が、時とともに成長していったことは容易に想像がつく。一体なぜこんなことになったのか? 二度と再び愚劣な戦争を繰り返さないために、自分たちはどうしたらいいかというテーマが少年の心に根付いたのだ。
井上の戯曲を並べてみれば一見して分かることだが、舞台となる時代は終戦前後から決して前へ進もうとしない。おそらくそこにあった問題を解決しなければ日本人の未来はないと考えていたのだ。
「少年口伝隊一九四五」の最後の台詞に「(人も) 海も山も川も、いきなりだましがけにあばれてきよるけえ、いっつも正気で向かいあっとらにゃいけん。」 とあるが、この「欺された」という痛切な体験を伝え、だからこそ常に「正気で」いなければならないことを分かってもらいたかった。そのためにはまず、○○主義などという物事をきめ付けて押しつける考えを疑って掛からなければならない。これはどの芝居の中にも繰り返し登場するモチーフである。イデオロギーに対する不信は、右も左もないのだ。
ではなぜ日本共産党なのか? それは、現在の自身の政治信条あるいは目指す政策に最も近い政治集団を選択した結果に過ぎない、ということである。また、左翼としての一貫性がないとしばしば指摘されたが、おそらく彼は自分を普通の日本人、庶民の一人であって決して世に言う「左翼」と思ってはいなかったであろう。端的に言えば、天皇制を憎んだが、おそらく現在の皇室には何ら含むところはなかった。 
以上がプロレタリア文学の潮流に入れることを躊躇させるゆえんである。

二つの言いたいことはこれでおしまいだが、ここで、おもしろいことに気づく。
井上ひさしも大江健三郎も終戦を十歳で迎えている。大江には、井上ひさしのような終戦時に「裏切られた」という強い思いは見あたらない。自らを「遅れてきた青年」といって、戦争に間に合わなかったことを自嘲気味に、したがってやはり軍国少年だったことを匂わせるような言葉を述べている。
「飼育」は、戦時捕虜の話で、彼の近辺で実際に起きた事件に想をとっているのだが、これ以外に戦争にまつわる作品はない。四国の山の中で終戦を迎えたことが、案外精神的な軟着陸になったのかも知れない。
それ以上に、彼の原体験を形作ったのは戦後の教育に違いない。彼自身が「戦後民主主義の蜜月時代」と言っているのは、進駐軍の理想とする教育方針が、 戦後の一時期実際に行われたことがあって、その中にいた幸福を語ったものである。その基礎には進駐軍の若い将校や学者が、米国流のデモクラシーで日本を改造しようと創案した「日本国憲法」があり、そのもとで民主主義の理想を教え、実践する教育が行われたのである。
大江健三郎の中では、この教育によって、戦争で裏切られたことよりも憲法の意義と民主主義の理想がどっかりと腰を下ろし、根を張ったのだ。
この同じ時期に同じ教育を受けた井上ひさしもまた、民主主義こそ「欺されない」ための庶民がよってたつ精神的支柱と考えた。
この教育は、朝鮮半島の戦火が落ち着くまで続いたから、おそらく昭和十年から十七年生まれぐらいまでの小学生に強い影響を与えたはずである。(僕の姉もこの年代に入るが、その影響がもとで、共産党の市会議員を長くやった。教育というものは恐ろしいもので、未だに頑固一徹の民主主義原理主義者である。) 
大江も井上も「九条の会」の中心メンバーであるが、これは政治性をあまり感じさせないグループである。党派性を嫌い、頑強なまでに( 不器用なほど 、融通の利かない)民主主義の理想を主張する点で、この世代には独特の共通項が存在したのである。
文学史的には、第三の新人のあとにやってきた「戦後民主主義のハネムーン」世代とも言うべき新人類(いまとなってはおかしいか)と位置づけても良さそうな気がするのである・・・。

ところで、言おうか言うまいか迷っていたことがあったが、ここまで書いた以上思い切って述べることにする。
私小説とプロレタリア文学について「現在に当てはめる」のは無理があると言った。では残る「芸術派」についてはどうかと言うことである。
村上春樹についてはあまりまともに読んでいないので、書くのをやめようと思ったのだが、村上春樹と芸術派が対応関係にあるのかということなら一言言っておこうと思った。つまり、それで「平野謙が見た戦前の図式」が「現在にはあてはまらない」という僕のささやかな仮説の証明にとって必要十分条件を満たすというわけである。
(以下は、閑談と思っていただきたい。)

村上春樹の出発点にあるのは、明らかに現代の米国文学である。それもフォークナーやジョン・スタインベックなどの正統的米国文学あるいはヘミングウエイらのロストジェネレーションと呼ばれる作家たちの伝統とは一線を画すと言ってもいいマイナーなジャンルの小説の影響を受けて小説を書き始めたのだ。
典型的には、「ニューヨーカー」に短編を寄稿していた作家たちの作品、たとえばサリンジャー、カート・ヴォネガット、ジョン・アービング、ジョン・アップダイク、アーウイン・ショーといった一連の都会派小説といわれるものである。最近レイモンド・チャンドラーの翻訳をしたところを見ると、米国ミステリーやハードボイルドにも関心があったことをうかがわせる。
おそらく村上春樹は、こういう小説がなぜ日本にないのだろうかと疑問に思い、それなら一つ俺が書いてみようと思ったに違いない。その気持ちは、実はアーウイン・ショーを耽読した時に僕が感じたことでもあった。いや、むろん本気ではなかったけれど、米国大陸の乾いた風土でなら可能かも知れないが、我が国のような高温多湿の気候では成立しないかなどと考えていた。
こういうものを戦前の日本文学に見つけ出そうにも皆無である。無理矢理こじつければ井伏鱒二か太宰かと言うことになるが、潮流と言うにはあまりに心細い流れである。つまり、芸術派すなわちモダニズムと言ったところで、所詮私小説にもプロ文にも分類できないものを集めてまとめてみせただけで、何が本流なのかわかりにくいのである。
わかりにくいが、逆に追いかけて現在の(といってもすでに二、三十年は経過してしまったが)米国の都会派小説は、平野謙が見ていた三十年代のモダニズムのどこにつながるのか考えてみてもいい。
あの当時の日本文学の、いや平野謙当人のと言ってもいい、視野の中に欧州文学はあっても米国文学があったとは思えない。日本文学史は、米国文学に関心がなかったのである。
少しせっかちなまとめ方をすると、日本において、米国文学のしかもそのマイナーな部分を面白がって、その影響のもとに創業して成功したのは村上春樹が最初で、それは日本文学史の伝統にはないオリジナルの位置にある。

ところで、日本文学史が米国文学に関心がなかったのは、日本に「芥川賞」と「直木賞」があったからだ。この二つの賞は、希代のマーケティング・プランナーである菊池寛の発明だが、もう役割はとっくにすんでいるどころか我が国小説界に悪しき毒素を振りまいている。
かつて、ある出版社が現代日本文学全集を編むことになって人選をはじめたら、三島由紀夫がいいだした。松本清張を入れるなら俺は降りる。そこを何とかと言っても断固たる態度で聞き入れてくれない。大衆小説と純文学を一緒くたにされたくないという三島の考えだろうが、少なくとも清張は芥川賞作家である。柴練や五味耕祐(受賞しているが、あとで剣豪小説と占いに転向?した)とは違うのだ。結末は確か清張が苦笑しながら降りることを承知したのであった。
米国文学にはこんなくだらない分類はない。しかし、日本文学史は、大胆なことを言いますと、米国文学を全体としてなんとなく「直木賞」のジャンルにみていた。有り難くなかったのである。だから相手にしていなかった。村上春樹だって最初は遠巻きに見られていたし、芥川賞だってくれてやらなかったではないか。

文芸誌の衰退ぶりについてはすでに述べたが、三十年代の文学地図を片手に現代文学の案内をしているようでは回復の兆しは見えないと言うべきだろう。何でも衰退しているものの処方箋を考えるくせがあるもので、考えてみたのだが、文芸誌にとって必要なことは、ジャンルはあまり気にしないで、面白がる第三者をたくさん育成することだろう。つまり、小難しい文学談義はやめにして、批評家を育てることだ。もうひとつは、哲学、思想界にすんでいる人々との交流を盛んにして、作家と批評家の思想を鍛錬することである。
そして、もはや影も形もない文壇なるものにとらわれない広い視野で文学史を編み直した方がいいと思う。(当事者でもないのに余計なことを言ってしまった。)

村上春樹の言動にたいして関心はなかったが、最近、エルサルム賞を受賞したことをニュースで知った。これはイスラエルが与えるものだから、イスラム圏を敵に回すおそれがあって、考えどころだったが熟慮の末に受けることにしたと言うことらしい。

そこでの挨拶が見事であった。

<挨拶文>
 「受賞の知らせを受けたとき、ガザで戦闘が続いていたこともあり、この地を訪れることを警告されていました。私は自問しました。イスラエルを訪れることは適切なのだろうか?どちらか一方の側に味方する行為にならないだろうか?

 じっくり考えました。そして、来ることにしたのです。多くの作家がそうであるように、私も他人に言われたことと反対のことをするのが好きなのです。これは、作家としての習性なのです。作家は自身の目で見、自身の手で触れたもの以外を信用することができません。だから私は見ることを選びました。口を塞ぐことよりも、ここで話すことを選びました。私が話したかったのはこういうことです。

 もし、硬くて高い壁があって、そこに卵が投げつけられていたら、いかに壁が正しく卵が間違っていたとしても、私は卵の側に立つのです。

 なぜか?なぜなら、我々はみな卵だからです。かけがいのない魂を壊れやすい殻の中に宿した卵なのです。我々は、誰もが高い壁に立ち向かっています。高い壁とは、普通なら一人の人間としてやるべきではないと思うようなことまでやらせようとするシステムのことです。

 私が小説を書く目的は一つしかありません。それは、個人の中の無二の神性を描き出すことです。唯一無二であることを祝うためです。システムが我々を紛糾させるのを防ぐためです。だから、私は生きること、愛することの物語を書くのです。人々を笑ったり泣いたりさせるように。

 我々はみな同じ人類であり、独立した人間であり、壊れやすい卵です。壁と戦っても勝ち目はありません。壁はあまりに高く、あまりに暗くて、あまりに冷たいのです。壁と戦うには、我々は魂を一つにし、温めあい、力を合わせなければなりません。システムに主導権を握らせてはいけません-システムに我々がどんな人間かを規定させてはいけません。我々がシステムを規定するのです。

 あなた方に感謝します。イスラエルの皆さん、私の本を読んでくれてありがとう。何か意義深いことを分かち合えたら、と思います。あなた方がいることが、私がここに来た最大の理由なのです。」

井上ひさしの作品が「一貫して権力に対する反逆であり、常に弱い者の味方だった。」という評価に一脈通じるものがあると思いませんか。この一点で、村上春樹をプロレタリア作家の裔と言ってもいいくらいだ。(いや、これは冗談!)

えーと、最後に、弔辞の全文を読んでいないのに 丸谷先生の説にたてつくようなことを言って、大変心苦しく思っている次第です。
だからといって、先生に対する尊敬の念はいささかも揺るぎないものと申し上げておきます。実は、僕のささやかな本棚の最も多くの場所をしめる本の背表紙には丸谷才一の文字があることを告白します。
また、この間「ながれながれて、弘前、高知」と揶揄された、その弘前の出ではありますが、そんなことぐらいで先生を恨んではおりません。ご安心ください。
取りあえずこれでおしまいにします。

 

 

 

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