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2010年11月30日 (火)

新崎智のこと(2006年ごろに書いたもの)

当ブログの「『必読書150』の時代錯誤」が比較的よく読まれていることがわかったが、これは教育というものの本質について、呉智英の挿話を紹介して書いたものだった。読むべき本を何百冊紹介したところで、教育にも何にもならないことをもっと強調してもよかったが、説教くさくなるのでそれはよした。

それで、読んでいただいた方たちにはきっと呉智英氏に興味を抱いたひとがいたのではないかと思って、以前ホームページに書いたものを掲載します。

 

「犬儒派だもの」
先日調べものがあって本屋に行った。何しろ半径二百メートルのところにやや大型の書店が二つと区立図書館があるので便利この上ない。日に一度は新刊本を確かめに行く。
新書コーナーで「団塊ひとりぼっち」(山口文憲)のタイトルに惹かれて、立ち読みを始めるとまもなく面白い箇所に出会った。この本は団塊世代の退職問題という話題に則して全共闘とは何であったかを論じているもののようだ。(この手の本は自分のことが書いてあるようで、気恥ずかしくてとても最後まで読めない。)
団塊ー全共闘といっても当時の大学進学率は16%に過ぎないし、そのうちのせいぜい10~20%がかかわったとしてその数は知れたものだ。にもかかわらず全共闘世代と呼ぶのはなぜか?というような論が展開されていた。(今日図書館に行ったら貸し出し中で予約が三人も入っていたから、そのうち読んで報告します。)
その全共闘に参加していた人物像がどんなものだったかをいくつか紹介する中に、例の「きつね目の男」宮崎学がいた。周知のように京都のやくざの親分の家の末子として生まれた宮崎は、当時早稲田大学法学部の学生で、意外にも民青系自治会の役員だった。
山口は宮崎の文章を引用してその話を紹介していたが、正確を期すために宮崎の本に直接当たってみた。
それは「突破者」(96年)の中に見つかった。「日韓闘争では 早大の他党派の連中や、東大を初めとする他大学の日共系学生とも知り合いになったが、そのなかでも傑出してユニークだったのは新崎智である。
・・・ある総会で執行部が運動方針を発表した。・・・その方針を執行部が発表した途端、新崎が猛然とかみついてきた。論旨は、理念や指導性不在の大衆迎合主義的政治主義であるということだったと思う。執行部を散々批判したあとで、こういった。
『それじゃあなにか。学生大衆の中から『おまんこがしたい』という要求が澎湃(ほうはい)として湧き上がったとしたら、執行部の諸君は大学当局にかけあって、我々におまんこ実現を勝ち取ってくれるというのか。ばかげた無原則的なことをいうんじゃないよ』」
当時の民青の『諸要求運動』を思い出して、これほどの面白い反論は聞いたことがないなあと思った。この新崎智がまもなく呉智英と名乗る男である。
そこを読んで、はっとした。数日前立ち読みして面白かった呉智英の「犬儒派だもの」をやっぱり買おうと、もう一軒の本屋へとってかえした。ところが、売れたのか期限がきて返本したのかあったはずの本棚から消えていた。これはアマゾンにでも頼むかと思って調べたらすでに文庫本になっている。こうなったらもう執念である。急ぎ本屋の文庫本コーナーを探しまくると双葉文庫というマイナーな棚になんと見つかったのである。
早速ビルの外のベンチで読み出したら止まらなくなった。おまけに、あまりにおかしくて吹き出してしまうのを誰かに見られないかと心配しながら読んでいた。さっき引用した文の前に呉智英当時新崎智がいかにユニークだったかを示す逸話があるのでそれを紹介しよう。
「・・・新崎は新左翼系の連中にずいぶん人気があった。その支持で第一法学部のスト決議学生大会の主演説を何回かやっている。それがまた次のような、後年の呉智英を彷彿とさせる一風変わった中身だった。『『自己否定』とは『自己肯定』のことである。出世のためということで学問すればするほど学問の本義から遠ざかっている自分を発見する。それが自己否定である。自己否定は目指してするものではない。自己肯定の結果、現出するものだ。それはあたかも、徹底した防火が実現すれば失業するのに、防火に力を尽くす消防士のようなものである。」
分かったような分からないような・・・。ともかく呉智英はいまでもかなりユニークである。これまでは文章の切れっぱしや「BSマンガ夜話」でしか、お目にかかっていなかったが、民主主義は大いに問題があるなどという発言にも興味があるのでこの先、大急ぎでこれまでの文章を読んでみたいと思っている。

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呉智英」カテゴリの記事

コメント

何事につけても新しがり屋の日本人が、時代遅れの精神生活を送っているのはどうしたわけか。

日本人には、意思がない。だが、恣意がある。
だから、意思を恣意と間違って解釈することになる。
すると、以下のようなことが起こる。

西洋文化の輸入も、意思がなければ支障をきたす。
意思の自由は考えられるが、恣意の自由は考えられない。
恣意の自由は、<自由のはき違え> となり、自由主義の普及も難しい。
意思は自由主義・個人主義の友人であり、恣意は利己主義は不自由主義の友人である。
不自由を常と思えば不足なしか。

政治指導者の意思決定はなく、その恣意決定は受け入れない。
意思の表明は成り立つが、恣意の表明は成り立たない。
日本人の声明発表はうつろに響く。その形式的な声明には、実行の意思がないからである。
そして、きれい事というか、空理空論には現実対応策が欠落している。ああ、むなしい。

意思があれば、罪もある。
殺意があれば、殺人罪である。
殺意がなければ、たとえ人は死んでも、死刑執行人は罪に問われることはない。

日本人には意思がない。
意思は、未来時制の内容である。
日本語には、時制がない。

意思薄弱とも思える日本人の社会では、意思を確かめることは難しい。
人々は個人の意思を確かめるこなく、個人の恣意に関する察しに専念する。  
察しにたけた人物は、思いやりの深い人間として信頼されている。
だから、裁判員になることについて、日本人には多大な精神的抵抗がある。
罪の意識のない社会では、人々は罪を裁くことを望まない。<責任者を出すな> と叫ぶ。

日本人には、意思 (will) はないが、恣意 (self-will) がある。
成案はないが、腹案がある。
意思・成案を表すのには、文章が必要である。相手がその矛盾を指摘することもできる。
だが、恣意 (私意・我儘・身勝手)・腹案には、文章は必要ない。
恣意的な人間は、言語に不自由をしている子供・アニマル同然である。大和魂の持ち主のようなものか。ど根性か。

日本人が子供に見えるのはこの時である。
周囲のものが指導者の意思を察するのである。ただ意向というか、はっきりしないものを察するのである。
政治家と公設秘書のようなものか。一致団結して阿吽の呼吸でやる。
俺の目をみろ 何んにもいうな 男同志の 腹のうち。腹案がある。共謀関係の立証は難しい。
察しは他人の勝手な解釈であって、いざ罪のありかを定める議論になれば、それでは証拠不十分となる。
意思の存在を認めることのない社会で、意思の有無を確認することは難しい。

腹案の内容は、腹を割って見せなくては知られない。隠ぺい体質の産物である。
それには談合が必要である。小言、独り言の類が語られる。
内容は、決して公言・宣言としては表明されることはない。

恣意を文章にすることは、英米人はやらない。
理性を失うことは、恥ずかしいことだからである。
やれば、周りの者から嘲笑される。
彼らは、'Shame on you!' (恥を知れ) と言って、相手をしかりつける。
だが、これを日本人はやる。この種の恥は、日本人にはない。
これを '本心をさらけ出す' と言い、内々で甘えさせてもらうのである。
相手は、'真意は何か' と尋ねる。
この行為が英米人の日本人に関する不思議である。

恣意的な人間は、滅私奉公により調教された。わが国の伝統的な人間教育は、序列人間を作ることである。
意思を認めることのない社会での責任者探しは難しい。無責任な社会では、それ特有の犠牲者を出さなくてはならない。
だから、日本人は恣意の理不尽に耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍んで生活する必要があると教えられている。

意思があれば、その内容も明らかにすることができる。
意思の内容に賛同して、協力者も現れる。
恣意であれば、その内容も明らかにすることがでない。
恣意は誰もが嫌うので、協力者が現れることもない。
日本人は、戦争のときでさえ、絶対的な権力者を作ることはなかった。

文章が無くては、議論は始まらない。
無理が通れば、道理が引っ込む。だから、問答無用である。
上下関係で決着をつける勝負の世界である。猿山のサルと同じかな。
自分の(恣)意のままにならぬ相手を切って捨てるところが恐ろしい。

世俗的なものの上下を知らなければ、礼儀正しい日本人になることも難しい。
日本人の礼儀作法は、序列差法だからである。序列なきところに礼儀なし。

http://www11.ocn.ne.jp/~noga1213/
http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/terasima/diary/200812

投稿: noga | 2010年12月13日 (月) 14時12分

寺嶋さんへ(上のコメントは寺嶋さんからいただいたものと思いますが、間違っていたらごめんなさい。コメントした方へ申し上げます。)

コメントを6回半ほど読みました。あまりにも難解で、僕のような頭の悪いものには歯が立ちませんでした。
僕の呉智英の面白がり方は、いけないとおっしゃるのでしょうか?
ひょっとしたら、この文はまず英語で書かれたものを日本語に翻訳している?のではないか。もしそうであれば、英語の原文をいただいた方が早いかも知れませんね。

投稿: 隆一郎 | 2010年12月14日 (火) 19時30分

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