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2010年10月29日 (金)

「逝きし世の面影」と小谷野敦の批判

 渟風 中村隆一郎  2010年10月29日 (金)

 

Image_20190718181701 前回、小谷野敦氏(以下敬称略)が「おおよそ正論を吐いて世の常識に逆らっているのはたのもしい。」と書いた。「日本文化論のインチキ」(幻冬舎新書)で「ポストモダン」や「ニューアカ」をもてはやした知識人の総括はどうなっているのかと責め立てたのには、溜飲を下げる思いといった。

 

ところで、この「日本文化論のインチキ」には以前から気になっていたことも書かれている。

渡辺京二の「逝きし世の面影」をトンデモ本だといっていることである。

 

僕は、二年ぐらい前だったか本屋で偶然「逝きし世の面影」を発見して楽しく読んだが、しばらくしてAmazonのレビューに小谷野が書き込んでいるのを知った。以下短いから全文を引用する。

 

「名著扱いされていなければ、よくある「お江戸礼賛」本の一つだろうが、名著扱いのために現代最大の悪書となっている本である。

外国人、主としてだけを読み、日本側の記録は一顧だにしないという偏った方法で、外国人が日本を褒めれば涙を流さんばかりに喜び、貶せば西洋人流の偏見だと怒る。だが朝鮮通信使もまた同様に日本を野蛮国として記述していたことは知らない(『申維録』)。また、日本人は裸体を気にしないという俗説は、同時代の川柳(渡辺信一郎『江戸の女たちの湯浴み』など)によって覆される。あるいは著者は無邪気にも、売春は明るかったのだなどと言うが、キャバレーのホステスであろうと、客を前にすれば明るく振る舞う。背後にどんな闇があろうとも。

近世および明治という、過去礼賛に耽溺し、現実を直視できなかった著作であり、その一方で、この著を正しく批判できない多くの左翼知識人にも大いなる責任がある。」

 

「名著扱いだから悪書」というのは、おそらく誤解を生むとか嘘を振りまいて世をたぶらかすとかという意味なのだろう。

この批判を読んで、僕は頭をかしげた。

 

「西洋人が、幕末・明治初期の日本を観察して描いた記録」から当時の日本人の暮らしぶりを様々な角度から見てみようというのが、この本の主旨だから西洋人の観点に偏っているのは当然ではないか。

 

もう少し言えば、この本は、渡辺が立てたひとつの仮説によって成り立っている。つまり、鎖国を解いて西欧を受け入れる以前の日本人の生活感や暮らしぶりは他には見られない一つの「文明」と呼ぶべきものではなかったか、と言う仮説である。文化は時代とともに変容するだけだが、文明は滅びるものである。(この論が正しいかどうかはともかく)これを「文明」として把握しようとするときには、どうしても外からの視点が必要になる、つまり対象を異質なものとして眺める観点が不可欠だということに、この本の方法論は基づいている。

 

だから「日本側の記録は一顧だにしない」のはけしからんといっても、そもそも本の目的が比較をして「文明」かどうか証明することではないので、無い物ねだりなのである。(「文明」であることを証明したところで、学問的に意味があるかどうか渡辺には関心がなかったはずである。)

 

渡辺はただ、仮説を提示したかっただけなのだ。

 

朝鮮通信使の見方を取り上げないという批判がどれほどの重要性があるのか判断しかねるが、そのことならば、司馬遼太郎が時々取り上げているので割合周知のことである。朝鮮の使節が道々裸の男たちを見かけるたびに眉をしかめたというのだが、この裸については外国人の目にはもっとも奇異に映ったもののひとつに違いない。しかし、読者にとっては、階層やTPOで違いがあることは先刻承知のことで、日本人全体が裸体を気にしないとは思ってもいない。

 

「日本文化論・・・」でも盛んに言い立てている日本人の性のおおらかさについても、おなじことがいえるのだが、(混浴で)女の裸を見て欲情するかしないかという議論はおいても、取りあえず混浴という事実に外国人が異質性を見ていたのである。

また、売春について「明るい」といっていることについては、この本の読者が「苦界」という言葉を知らないはずはないとだけいっておこう。

さらに、「過去礼賛に耽溺し、現実を直視できなかった著作」といっているが、この本の大半は、外国人がその目の前にあった光景を描いた著作から引用した文によって成り立っている。少なくとも「現実を直視した」外国人の思いはその中に確実に存在する。

 

こういう事を誤解や曲解する読者がいないとはいわないが、それが悪書と言うほどの害を及ぼしているとはとうてい言えないと思う。

 

最後に、左翼が批判しないのはけしからんといっているが、この本は巧妙にできあがっていて、保守派とか右翼が「そら、みたことか」ともちあげる事もできなければ、左翼が正しく批判することも封じられている。

 

渡辺は、一時流行ったサイードの論には与しないと最初に宣言している。オリエンタリズムとは、西洋の視点で東洋(中近東)を再構成したものというサイードの「近代」批判を受け入れたとしても、それはほとんど生産的な議論を生まないというのが渡辺の見方で、これは民族主義的な志向を持ちたがる読者に釘を刺した形になっている。

 

また、この「文明」はすでに滅んでしまったもので、二度と再びそこへ戻ることがない、あるいは戻ろうとする復古主義にも無理があるといって、はじめから左翼からの批判をかわしたかたちになっている。

こういう本が、右翼に利用されることをあらかじめ視野に入れ、誤解した左翼にお門違いな批判をされてはかなわんという渡辺の言論人としての配慮が働いている。(但し、この右翼左翼という言葉はとりあえず小谷野に従って使っているが、それが意味する本当のところを僕はよく知らない。)

 

「トンデモ本」という批判は、本全体があやしい記述で満たされているという印象を受けるのだが、上の書評を見ても「日本文化論・・・」のそれも「裸体」とそれに関連する「性意識」について言及されているだけで、他の部分は何の批判もされていない。全体として「お江戸礼賛本」とひとくくりにされているのはいいとして、それならトンデモ本と否定するほどのことでもないような気がする。どうも議論を自分の専門分野に引き入れて、そこだけ突っついて批判したような印象である。批判を本人に送ったが返事はないそうである。小谷野のこだわりも相当なものだが、なにはともあれ返事をしないのは礼儀を欠くとは思う。

 

それにしても、小谷野敦ともあろうものが、こういう細かいことに拘泥していては、いけないのではないか。他の批評もこの程度かと思われるのは惜しいと思うからだ。

僕は最初にタイトルを見たとき少し違和感を覚えた。たった百五十年前、手を伸ばせば届きそうな時代のことを「逝きし世」とするのは、少し早すぎるのではないかと感じたからだ。

 

僕の祖母は、明治十六年生まれで86才まで長生きしたが、僕が子供の頃はまだ眉を落としてお歯黒を塗っていた。たらいにお湯を張って髪を洗う時に、頭のてっぺんが円形に短くなっているので不思議に思って聞くと、髷を結う時にそこが長いと邪魔になると言うことであった。すすぐ前に、今から思えばあれは布海苔をたらいのお湯に溶かしていた。今で言えばリンスの機能になるのだろう。祖母は上半身裸で、別に胸を隠そうともしていなかった。子供のことだからということでもなかったと思う。ブラジャーなどまだなかったころである。女の胸に今のような意味はなく、それは僕らには見慣れた光景だった。

 

また、夏の夕方など、仕事を終えた馬喰が家の前に置いた縁台に腰掛け、上半身裸で将棋を指しているのをよく見かけた。その裸は、ぼくには子供心にも不作法で、無教養でどうにも気分のいいものではなかったが、大人たちにはごくあたりまえのふるまいだった。

もちろん維新前後に外国人が見たものではないかも知れないが、僕らにとってはまだ、遠い記憶のなかに残っている風景なのだ。

 

しかし、この本を読み終わった時に、なるほどと思った。

 

取り上げられた文献は個別に読んでいるものもあったが、こうしてまとめられると、外国人が始めて日本人を見た時に感じた「異質性」とはこういうものだったのかという思いである。 そして、大陸から切り離されどんな文明の侵略も影響も受けなかった小さな島国が数百年のあいだにはぐくんできたものは、確かに小なりとはいえ「文明」と呼べるものであってもおかしくはない。

 

それが始めて西洋という文明に出会って滅んだ。渡辺京二は、もう二度とそこへ戻ることはできないというおもいを確かめるために、逝ってしまったあの時代の消えていく「面影」を書き留めておこうとしたのであろう。

 

これが書かれた時代は、冷戦が終わりを告げて世界が生きていく基準を失いかけている時である。渡辺は、これから本当の意味で日本が自律して歩んでいかねばならないと感じたに違いない。新しい出発のためには、古い過去を捨てなければならない。

捨てなければならないものが、あまりにもいとおしくて、そのセンチメントがこの大冊を書かせたと言えるが、しかし、断固としてそれは「逝きし世」と逝ってしまったことを言い切るのである。

 

「面影」という言葉に、その哀切の心情が込められていることに共振して、長い間多くの読者を獲得してきたのであろう。それが名著であるかどうかは僕にとってはどうでもいいことだが、トンデモ本といわれると小谷野敦の名誉のためにも一言言いたくなる。51h8rjfebcl_sx331_bo1204203200_

 

 

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コメント

私はこの本への批判を『なぜ悪人を殺してはいけないのか』に収めた論文で初めて行い、その抜き刷りを渡辺に送ったが、何の返事もなかった。そういう態度をとられれば、自ずと批判は苛烈になっていくものだ。読者が「苦界」を知ろうが知るまいが、渡辺の本は過去賛美的に、愚民によって読まれている。平凡社ライブラリーの解説者が平川祐弘であることによっても分かろう。

投稿: 小谷野敦 | 2012年10月 7日 (日) 00時47分

わたしも小谷野のくだんの書評をみました。

本の高評価を否定したい気持ちはつたわったが、本が趣旨とするものへの批判にはなっていないなとおもった。

もし小谷野が書評に書いているような主張の論文を著者におくったのだとしたら、無視されてもそれは妥当であろう。本の一番いいたかったところを無視してわずかな箇所に拘泥したような態だからだ。

世間にどれくらいお江戸礼賛的風潮があり小谷野個人がどれくらいそれをにがにがしくおもっているか、そんなことは『逝きし世』の著者には関係がなく、書いてあとで名著あつかいされたからと責任を追及されるいわれもない。

この本は別段啓蒙的な姿勢の論文でもなんでもないし、史学論文でもない。司馬遼太郎が歴史エッセイをかくのと同列なのである(それよりも精密で学問的価値がありそうだからかえって小谷野は学者センセイとしてひっかかったのだろうか?)。

結局小谷野が評していることは「司馬史観」の重箱の隅的な批判者がやっていることのバカバカしさに似ている風もある。

本書が名著あつかいされた分、しゃらくさい批評ではなくお江戸信奉者が有無をいえないくらい「苛烈」な批判を展開してもらいたいものだ。そうでなければ「禁煙ファシズム」がごときひとりよがりの封じこめ欲求でしかない。

しゃらくさい批評ごときではかえって過去賛美者の増長をおさえるどころか、ますます図にのらせるばかりだ。「新近代主義者」を標榜するくらいなら、もっとしっかりやってもらいたいものだ。

投稿: | 2016年6月18日 (土) 23時56分

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