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2010年10月21日 (木)

「フユヒコ」に登場しなかった夏子のこと


夜中に目が覚めて暇つぶしをやっていたら、大して読んでくれるひともない僕の劇評の中でも、2009年四月に書いた、「フユヒコ」が比較的よく読まれていることに気がついて、そういえばやり残した事があったと思い出した。
一つは、寺田寅彦の最初の夫人夏子が評判の美人であったことはわかっているが、どこかに写真がないかと言うことである。
もう一つは、山田一郎の労作「寺田寅彦ー妻たちの歳月」(岩波書店)で引用されている夏目漱石の初期の作品「趣味の遺伝」の一節があまりに短すぎて、この前後を確認したかったことであった。
まず写真の方だが、asahi.comの記事で比較的簡単に見つかった。(劇評の中に埋め込んでおいたので興味のある方はごらんください。)
漱石の短編の方は、これもたやすく読むことができた。
山田一郎は、「趣味の遺伝」の主人公が、寂光院の墓地で偶然若く美しい女性と出会う場面を短く引用して、その描写した容貌は夏子のものに違いないと推理している。僕は、漱石が自分の短編にたまたま美人を登場させる必要があって手近にあった夏子の風貌を拝借したのだろうと思っていた。
それはそうにちがいない。しかし「趣味の遺伝」は、この女性がいなければ成立しない小説であった。

 


「(親友の墓参りをしている見知らぬ若い女を見つけて、声をかけようか)・・・どうしようと迷っていると女はすっくら立ち上がった。後ろは隣りの寺の孟宗藪で寒いほど緑りの色が茂っている。その滴たるばかり深い竹の前にすっくりと立った。背景が北側の日影で、黒い中に女の顔が浮き出したように白く映る。眼の大きな頬の緊った領(えり)の長い女である。」ここまでが、山田一郎の引用した部分。続いて「右の手をぶらりと垂れて、指の先でハンケチの端をつかんでいる。そのハンケチの雪のように白いのが、暗い竹の中に鮮かに見える。顔とハンケチの清く染め抜かれたほかは、あっと思った瞬間に余の眼には何物も映らなかった。
 余がこの年になるまでに見た女の数は夥しいものである。往来の中、電車の上、公園の内、音楽会、劇場、縁日、随分見たと云って宜しい。しかしこの時ほど驚ろいた事はない。この時ほど美しいと思った事はない。」
息をのんで、そのまま見送ってしまった。
少し落ち着いて主人公が今の体験を振り返ってみる。しばし漢文の勉強である。

 


「百花の王をもって許す牡丹(ぼたん)さえ崩(くず)れるときは、富貴の色もただ好事家(こうずか)の憐れを買うに足らぬほど脆(もろ)いものだ。美人薄命と云う諺(ことわざ)もあるくらいだからこの女の寿命も容易に保険はつけられない。しかし妙齢の娘は概して活気に充(み)ちている。前途の希望に照らされて、見るからに陽気な心持のするものだ。のみならず友染(ゆうぜん)とか、繻珍(しゅちん)とか、ぱっとした色気のものに包まっているから、横から見ても縦から見ても派出(はで)である立派である、春景色(はるげしき)である。その一人が——最も美くしきその一人が寂光院の墓場の中に立った。浮かない、古臭い、沈静な四顧の景物の中に立った。するとその愛らしき眼、そのはなやかな袖(そで)が忽然(こつぜん)と本来の面目を変じて蕭条(しょうじょう)たる周囲に流れ込んで、境内寂寞(けいだいじゃくまく)の感を一層深からしめた。天下に墓ほど落ついたものはない。しかしこの女が墓の前に延び上がった時は墓よりも落ちついていた。銀杏(いちょう)の黄葉(こうよう)は淋(さみ)しい。まして化(ば)けるとあるからなお淋(さみ)しい。しかしこの女が化銀杏(ばけいちょう)の下に横顔を向けて佇(たたず)んだときは、銀杏の精が幹から抜け出したと思われるくらい淋しかった。上野の音楽会でなければ釣り合わぬ服装をして、帝国ホテルの夜会にでも招待されそうなこの女が、なぜかくのごとく四辺の光景と映帯(えいたい)して索寞(さくばく)の観を添えるのか。これも諷語(ふうご)だからだ。マクベスの門番が怖(おそろ)しければ寂光院のこの女も淋しくなくてはならん。」

 


この美しい女が、戦死した親友とどういう関係にあったのか、主人公はこの女にもう一度会ってただしたいと思う。その思いは日増しに強くなっていく。

 


漱石の描く女は、司馬遼太郎のそれよりは美人で魅力的だが、もし夏子をモデルに書いたとすれば、なんだか妙な気分になってくる。ただ、漱石の江戸っ子らしい言葉遣いやユーモアがそれを薄めてくれているのも事実である。
それにしても、文豪をしてこれまで見た女の中で群を抜いて美しいと言わしめた夏子とはどんな女性であったのか?
夏子は、十四才で五歳年上の当時第五高等学校の学生だった寅彦と結婚した。しかし、同居を始めたのは寅彦が帝国大学に入学して上京したときからである。明治三十三年の暮れも押し詰まったある日、二人で出かけた縁日からもどると、突然夏子が大量の血を吐いた。肺結核であった。随筆「団栗」の中にその出来事が書かれている。
翌年、高知へ帰って療養するさ中、長女貞子を生んだが、明治三十五年秋、満十九才の若さで他界した。
劇評に引用した寅彦の日記の中に分からなかったことがあったが、今度のことで判明した。
「午前四時、夏危篤の報あり。次いで六時絶息の報あり。十二時新橋発急行。阪井両上送り来る。昨夜会より帰りて床に就かんとする頃、胸騒ぎひとしきりしたるが恰も夏の臨終の刻なりしと思合わされたり。この朝、第二の電報いまだ来ぬ前、暁の鴉夥しく屋根に鳴き騒ぎたり。」とあるが、この新橋駅まで「送り来」た「阪井両上」とは誰なのかが疑問だった。わざわざ書き記しているところは格別の関係、親類か何かなのだろうと思っていた。この阪井とは、実は夏子の旧姓であった。このとき僕はうかつにもそれに気づいていなかった。「両上」というからには、夏子の両親のことだろう。すると娘が亡くなったというのにこの夫妻は、なぜ婿と一緒に帰郷しようとしないのか?何か心に引っかかるものがある。このわけは、寅彦の日記が結婚の前後一年あまり抜け落ちているところに潜んでいるのではないかという関係者の見方があることもわかった。

 


「第二の電報(臨終の)いまだ来ぬ前、暁の鴉夥しく屋根に鳴き騒ぎたり。」という文をあっさりと書き付けた二十五才の寅彦の心情を思えば、こみあげてくるものがある。

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コメント

亀レス失礼。
寺田夏子について検索していたらヒットしましたので、大変興味深く拝見させていただきました。

夏子の写真ですが、asahi.comの記事以外にも、小林惟司氏による「寺田寅彦の生涯」改定新版(東京図書、1995年)の中にも何枚か紹介されています。
こちらの写真のほうがずっと鮮明ですので、よろしければ確認してみてください。この本は現在残念ながら絶版ですが、比較的新しいので古本で容易に手に入ると思いますし、図書館での閲覧も可能でしょう。

投稿: D+ | 2014年4月17日 (木) 22時29分

貴重な情報をありがとうございました。早速、探してみます。

投稿: 隆一郎 | 2014年4月21日 (月) 09時56分

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