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2010年6月25日 (金)

やっぱり、続いてしまう。

下の「いまさらながらNAMのこと」からつづいています。
「国家」については、一応このようなイメージができあがったが、資本主義はどうなのだろう。竹田青嗣に沿って見ていこうと思ったが、哲学の世界ではマーケティングにすこし遠い議論になってしまう。そこで、彼の著作から示唆をうけたのだが、社会学の領域に入って、資本主義の現在について見ていきたい。

需要を上回る供給がやがて恐慌を生むというのが資本主義の典型的な矛盾とされてきた。事実、約十年周期で現れる恐慌は長い間克服できない資本制システムの基本的な問題だった。しかし、これを資本制システムの中で需要を自ら生み出すという方法によって解決したのが現代の情報化・消費化社会である。

「〈情報化・消費化社会〉は、はじめて自己を完成した資本制システムである。自己の運動の自由を保障する空間としての市場自体を、自ら創出する資本主義。人間たちの欲望を作り出す資本のシステム。資本制システムはここにはじめて、人間たちの自然の必要と共同体たちの文化の欲望の有限性という、システムにとって外部の前提への依存から脱出し、前提を自ら創出する〈自己準拠的〉なシステム、自律するシステムとして完成する。
〈情報化・消費化社会は、誤解されているように、〈純粋な資本主義〉からの逸脱とか変容ではなく、〈情報化・消費化社会〉こそが初めての純粋な資本主義である。

マルクスは、この純粋な資本主義、資本制システムの自立と完成の形式を見ないで死んだ。そして、資本主義の形成途上の形態、労働の抽象化された自由の形式のみを前提し、欲望の抽象化された自由の形式をまだ前提することのできない資本主義の形態を、このシステムの純粋な完成態と見て、その理論のモデルを作った。」(「現代社会の理論」見田宗介、岩波書店)

資本主義の最大の矛盾は、資本が自ら需要を創造することによって、無限に供給を続けられるシステムに変容してしまった。というよりも、それこそが資本主義の完成形であった。
これは驚くべき見解である。あの、ジャン・ボードリヤールの「シミュレーション」と「シミュラークル」が戯れる「ハイパーリアル」な世界は、そのまま「リアル」として現出してしまったようである。マーケティングにとってこのような指摘は重大である。どのような商品にも可能性は無限大に広がったのだ。「ニーズ」を探そうというよりも、「ニーズ」そのものを創造すると考えたらどんなことでも思いつくではないか。逆に考えたらどんな「禁忌」もなくなったわけである。情報化・消費化社会とは、情報を通してどんな欲望も作り出すことができるということなのだ・・・。

「けれどもこのことは本当は、消費社会の抽象的な可能性の条件を示すにすぎない。確かに「容量」は無限だとしても、実際に考えてみるなら、どんな商品も、すぐさまそれに見合った「欲望」を消費者のうちに形成できるわけではない。新しい商品は、すでにある欲望に対応する必要はなく、新しい欲望をつくり出すものであってもよいのだが、この「新しい欲望」は少なくともその時代の消費者の(小さすぎない部分)にとって、魅力的であると感覚される商品によってしか触発されない。消費社会の、——「表面的」であれ何であれ、——固有の「楽しさ」「華やかさ」「魅力性」は、欲望が「全く自由に」作り出されるという形式だけによっては、かえって説明されることがない。そこには「魅力的」であることをめぐる熾烈な戦いがある。必要を根拠とすることのできないものはより美しくなければならない。効用を根拠とすることのできないものは寄り魅力的でなければならない。
離陸ははたしても引力づけられた空間のうちにとどまる他のない、ある中間の気圏の内部に繰り広げられる、この美しさと魅力性とをめぐる熾烈な競争が、「情報化・消費化社会」の固有の「楽しさ」「華やかさ」「魅力性」を増殖し展開し続ける、積極的な動因である。」(同前掲書)

このわれわれが獲得した情報化・消費化社会の楽しさは,もはや何物にも代え難い。これは、資本の増殖過程の一環ではないかと言われようとどんな批難があろうともこの楽しさが、「自由」というものである。この「生きることの喜び」は、もはや止めようのない運動なのだ。
ここへきて、ようやく資本主義はその負の部分だけでなく丸ごと見られるようになった。資本主義には光り輝いている部分もあれば、陰の部分もある。それをあるがままに見ること。「欲望の抽象化された自由の形式」が実現した資本主義の時代をわれわれは生きているのである。
わたしはここで、今を生きていることの一種のコンプレックスが消えていくのを覚える。

「現代の情報化・消費化社会へのどんな批判も、この社会固有の「楽しさ」と「魅力性」という経験の現象と、それがこのシステムの存立の機制自体の不可欠の契機であることを押さえておくのでなければ、このわれわれの社会の形式のリアリティの核のところを外した認識となるほかはないだろう。」(前掲書)

竹田青嗣は、資本主義の現在をどう見ているか、柄谷の批判の中に出てくる見解を引いてみる。必ずしも「離陸した」とはいっていないが、近代国家が人々の「自由」の根拠であるのと同じように資本主義もまた人々に「自由」を約束する経済システムであり続けている。
「「近代国家の本質」と同じく、資本主義もまた、世界史的には、まだ各人の社会的・政治的「自由」を解放し、確保するための可能性の条件であり続けている。問題は、このシステムから、誰もがばかばかしいと考えざるを得ない奇っ怪な不合理や配分の不平等をいかに取り払うか、と言うことでなくてはならない。おそらくここでも問題の中心は、ちょうど国家間にその特殊意思を調停する「普遍意思」を設定できない限り、「近代国家の本質」が十分に発現しないように、資本主義システムに、そこから生じる富の配分を統御する「普遍意思」がまだ十分に設定されておらず、そのためフェアなルールゲームとしての本質が発現されないという点にある。」(「人間的自由の条件」)

「われわれの社会の形式のリアリティの核のところ」を押さえながら、その富の配分における「普遍意思」を構築しようとすれば、資本制システム全体を見渡してその「限界」に立ち現れる問題系を視野に入れなければならない。

「第一に言うまでもなく、自然との臨界面において、「環境」、「公害」、「資源」「エネルギー」問題として語られている問題系。「消費社会」システムの解き放つ欲望の無限空間と、その実在の前提である惑星と気圏の条件の有限性との、矛盾の様々な現れとしてみることのできるものである。」(「現代社会の理論」)
産業革命以来、大量生産と大量消費を続けてきた結果、自然との関わりの中で様々な問題が生じているが、これは起こるべくして起こった問題である。なぜなら、大量生産の前には自然からの大量採取があり、大量消費のあとには自然への大量廃棄があったにもかかわらず、そこはないものとして見ないできたからだ。つまり、その両端は、豊かな社会の外部が引き受けさせられていたものである。しかし、もはや見て見ぬふりはできない。

「第二には、このシステムと外部社会との臨界面において、「南北」問題、「第三世界」問題という不適切な呼び名によってしかまだその全体を語られていない問題系である。地理的には「先進産業諸国」の域内に「内部化」されている同様の貧困と解体も、「豊かな社会」の幸福なループのシステムの外部に排除され、しかもこの当のシステム自体によって形成され規定づけられた不幸であるものとして、「南北問題」等々と同型の構造を持つだけでなく、現実にも相互に移行し転形し合っているものである。(域外プラント、流入労働力、エスニシティ/マイノリティ問題、等々)情報化・消費化社会の繁栄が「必要」の地を離陸した、欲望の自由な形式の無限空間を開いたという場合、この離陸された「必要」の地の側はどうなるのかという問題としても提起される。」(前掲書)
これらは、直接的にはたとえば「貧困問題」である。それも、一日一ドル以下の暮らしを強いられている絶対貧困と、豊かな国の内部にある貧困である。
また、「飢餓」の問題であり、「人口問題」である。

これらの問題は、人類共通の課題として解決していかなければならないものだ。
この二つのうち、マーケティングが当面関われるのは、第一の問題である。「公害」問題では、尊い人命の犠牲のもとにそれを解決する技術を開発し、結果としては新しい需要を喚起した。「環境技術立国」という言葉もあるくらい、裾野の広い産業に成長した。世界は、温暖化防止という共通の目標を掲げて、その方向に舵を切った。マーケティングが戦略参謀として活躍できる場は多い。
第二の問題に関して言えば、実は実相がよく見えていないために、マーケティングが関われる手がかりを見つけられないだけなのかもしれない。その原因がわかれば、資源やエネルギー問題の解決がどうやら緒につけたように、解決の糸口が見つかるかもしれない。もちろん様々の要因が複雑に絡み合って容易にはできないと思うが、この問題を放置しておけばやがては、情報化・消費化社会が獲得した果実を失うことになるからだ。
実は、「人口問題」について、この本の中にあったある記述に蒙を啓かされた。
「人口問題が、貧困の原因である以上に結果であること、少なくともそれが、悪循環的に相互に増幅する連関の一つの輪として、それ自体ある社会的な構造の一契機であり、歴史的にある過渡期的なものであることをこの比較分析(人口調整に成功/不成功した国々の統計)は示唆しているように思うが、なお具体的に彼らは何故子供をたくさん作るのかと言うことをインドの現地で徹底調査を行ったマムダニ報告(「人口コントロールの神話」)に即して」見てみると、「インドの貧しい農民や失業者、半失業者がたくさん子供を持とうとする最大の理由は、土地もなく財産もない彼らにとって、現実の中で最良のー—ほとんど唯一のー—「社会保障」と「老齢年金」は、子供を持つことしかないと言うことである。」(同前掲書)
マーケティングがいつかはこのような課題に取り組まざるを得ない日が来るかもしれない。
とりあえず、第一の問題である。
その関わり方の構造は、その解決をビジネスに転化する方法を開発して行うというものだ。つまり、「環境」、「公害」、「資源」「エネルギー」問題を新たな消費=需要と考え、事業を通して解決していこうとすれば、それは資本主義のシステムの中で、人類共通の課題を解決することになる。もちろん、公的な機関は率先してやるだろうが、ビジネスを通して実現していくのがもっとも効率的になるはずだ。
われわれがやろうとしているボトルウォーターのビジネスも世界の水資源が枯渇の危機を迎えているという現実に出会っている。ここでは、危機をあおり立てるのではなく、冷静に決めたルールを守って、再生可能な資源の有効利用を図るという考え方で進めることである。あるいは、われわれが積極的にルール作りに関わっていくことである。
われわれが獲得した情報化・消費化社会の楽しさは,もはや何物にも代え難い。これを享受し続けようと思えば、マーケティングが目指すところは時代が解決を要請している課題に寄り添ってその戦略を組み立てる以外にない。
「二〇世紀の経験は、人間の〈自由〉を原理とする社会でない限り、たとえどのような理想と情熱から出発した社会であっても必ず新しい抑圧のシステムに転化するほかのないことを示した。われわれの社会がその外部と内部に、どのような困難を生み出すものであってもそれらの困難を乗り越えることは、〈自由〉を手放すことを通してではなく、本当に〈自由な社会〉の実現にとって必要な条件と課題とは何かという仕方でのみ提起されるべきものである。」(同前掲書)

かくて、わたしは、自分のマーケティングテーマとして「人間の自由」のためにという目的を手に入れた。「環境は」そのための具体的な手段である。これは〈いまとはどういう時代か〉と言うことを考えて到達した一応の結論である。
そのことが、メルセデスやAGFが,選択したマーケティング戦略の背景にある〈企業文化〉であるかどうかはわからない。しかし、わたしと同じように、彼らの態度はわたしたちの時代が抱えている問題を解決しようとする方向に向かっているように見えるのだけは確からしい。
ここまできて、あの須藤の、どこかへ立ち去ろうとしている後ろ姿が一瞬見えたような気がした。

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