« 今更ながらNAMのこと | トップページ | やっぱり、続いてしまう。 »

2010年6月22日 (火)

(続)いまさらNAMのこと

下の記事で、「続く、かもしれない」といったが、やっぱり続く。
竹田青嗣の「人間的自由の条件—ヘーゲルとポストモダン思想」(二〇〇四年、講談社)は、冒頭の論文「第一章、資本主義・国家・倫理——「トランスポリティークのアポリア」で、この「原理」のもとになった柄谷行人の「トランスクリティークーカントとマルクス」(「批評空間」,二〇〇一年)を俎上にあげて批判を提出している。
この批評の内容は、正直に言うとわたしの考えをほとんど一八〇度転換させてしまった。わたしは、漠然と国家も資本主義もいつかは止揚されると考えていた。だから、柄谷行人のNAMもなんだか実践的でもないし今風の議論ではないなと思いつつこういう考え方があってもいいかと思っていた。しかし、あの日同じ場所から出発した若者が、問題を徹底的に解体し再び構築し直して四十年を経たいま柄谷とは別の場所に飛び出していたのである。
竹田は、「アソシエーション」の考え方をつぶさに確認したあと、次のような感想を述べている。

 

「わたしに大きな誤解がなければ、「アソシエーション」という概念で柄谷が提出している資本主義に対する対抗原理は、このようなものだ。そしてこれは、おそらくは、先進国における良心的知識人、善意ある人間、アナーキー的心情を持つ人々が、反資本主義的心意を表現する上での実践的な「受け皿」を提供する運動として可能なのかもしれない。しかし、それは、ちょうど、たとえば理念的な共産主義的共同社会が資本主義的自由社会の内側で可能であるのと同じ原理においてのみ、可能なものと言わなくてはならない。」

 

わたしには言葉もない。
この柄谷が提案した資本主義克服の原理について竹田はその欠陥を三つあげている。
一つは、近代国家の本質を「権力の中心化」とみていること。これは、国家の政治原理についてきわめて古典的な見解である。
そして、貨幣から貨幣の本質性格である不等価交換原理を抜き取る、つまり市場経済から資本主義的性格だけを抜き取ればそれは克服されると考えたこと。これは剰余価値そのものを生み出すシステム=不等価交換原理こそ経済活動の動因であることをみていない。
さらに、国家および資本主義克服の原理を主体的、道徳的な「倫理要請的」な実践運動として着想したこと。これは、「善」と「悪」のような二項対立に陥り再び全体主義への道を開く可能性がある。
以上であるが、ここでは一番目の柄谷の国家=政治観が古典的だと指摘していることについてだけ見てみようと思う。国家とはどういうものか、竹田が他のところで述べていることも参照しながらその考え方をスケッチすることで十分だと思うからである。

 

「ひとたび人民の多数者自身が、自分の抑圧者を抑圧することになると、抑圧のための「特殊な力」はもはや不必要となる。つまり「国家権力の諸機能の遂行そのものが全人民的なものになればなるほど、ますます国家権力の必要度は少なくなり、したがって「国家は死滅し始める」(P七九)これはレーニンの「国家と革命」からの引用だが、柄谷が「国家」の本質は「権力の中心化」と考えたのは、こうした古典的な国家観があると見ている。

 

確かに国家権力は原理としてミニマムでなければならない。しかし、国家権力が不必要となり得るといった展望は全くの背理である。近代社会における自由の解放が人間の自己決定を多様化し、その相互調整のためだけでも一定の強力な権力機構が必要となることをレーニンは全く理解していない。」(「人間的自由の条件」)

 

「いつか国家権力はなくなる」などと言うことは「背理」=論理に合わないことだと言っている。つまり、一定の強力な権力機構としてとりあえず国家は「必要」なものなのだ。
竹田によれば、近代国家を基礎づける政治原理は、ルソーの「社会契約」およびその中の「一般意志」とホッブスの「万人による万人の闘争」=普遍闘争の二つしかない。この考えは、「社会契約」は現実には存在しないとか「一般意志」は決して理想的には実現されないなど様々な批判にさらされてきたが、現在、これを覆すにたる本源的な批判は見あたらないという。

 

「『社会契約』および『一般意志』というルソーの概念は基礎的な政治原理として未だこれを越える原理をみない本質的なものである。近代国家では、『政治権力』は人民の『一般意志』を代表する限りにおいてのみ『正当化』される。これが第一原理。
またこの原理は、ホッブスが先鞭をつけたもう一つの原理で支えられている。自由の相互承認は『他を尊重せよ』といった内的モラルにおいては実現され得ない。そこには原理がない。ただ、各人の自然権を、一挙に一般意志を代表する政治権力へ委譲することによってのみそれは可能となる。またこの『原始契約』の想定だけが、実力を伴う政治権限、つまり政治権力の『正当性』を根拠づける。」(P七九)

 

したがって、NAMの「原理」第一条は、希望的なものとして理解できるが、国家の中に求めてもないものである。
しかし、各人の自然権を、一挙に一般意志を代表する政治権力へ委譲したはずなのにその政治権力である国家は何故「人民を抑圧する」のか?
それには、国家間の激烈な競争があった。つまり、「原始契約」の想定の下に形成された政治権力の正当性=国家は、ひとたび外に出れば、ホッブスが想定した世界、「万人の万人による闘争」の世界に突入する。

 

「近代に成立した市民国家は、例外なく、国家間の激しい競合関係の中で国民国家形成を強いられた。この事情が「国家権力」と人民の「自由の権限」を絶えざる対立関係においたのであって、本来、市民国家の原理は、それが各人の「自由」と政治権限を確保するための政治権力であるという点にあった。
この不幸な転倒が生じた事情は次のようである。
国民国家が、排他的な利益共同体としての存在性格を強めれば強めるほど、国民の一般意志は、利益共同体として対他的競争に勝ち抜き、繁栄せねばならない、という共同体原理を強め、各人の個別的な「自由」が特殊性のままに一般的に確保されるための市民国家、という側面は後退するのである。」(P八〇)

 

市民国家の原理とは、どういうものか。最初にルソーが考えたのは、個々人の自由な欲求と幸福の自由な追求を確保し、保障するという点にある。ヘーゲルはそれをさらに「個人の特殊性」の「国家の普遍性」への統合、という場所へ推し進めようとする。

 

「その理由は、もしもルソー的規定のままでゆけば、市民国家は、「自由=我欲」の放埒な体系としての「市民社会」(すなわち資本主義的システム)が生み出す矛盾を決して超えられない,とヘーゲルも考えたからである。
近代国家の本質は、第一に、各人の欲望と幸福の特殊性を確保するという点にあるが、しかし同時に、国家が「欲望の自由な体系」としての市民社会性を克服するような「人倫的原理」(普遍性)として構想されなければ、その第一義さえ確保され得ない。」

 

しかし、そのような普遍的な人倫的原理を想定することはもはや不可能である。近代国家の本質的な矛盾は、「欲望の自由な体系としての市民社会」が、たとえば富の配分の不公正さを必然化するなどと言うことを指摘することでは解決できないからだ。そのことならば、まだ国家の内部で解決の可能性はある。むしろ、本質的な矛盾は国家間の関係的本質から現れている。

 

「近代国家の本質的なアポリアは、民主主義や、代議制や、自由と対等といった原理的建前が、絶えず欺瞞的な仕方で階級支配の道具に転化するといった点にあるのではないし、・・・その本質は、むしろ各人の多様で自由な幸福追求のルールゲームを確保する社会としての「近代国家の本質」が、国家間の緊張と対立という要因によって絶えず「共同体原理」の方へ引き戻されるという点にこそある。
・・・市民社会の“内部”では国家権力は、各人の対等かつ自由な政治権限の一般意志の表現として「自由の相互承認」を保障し、実現している。しかし、諸国家の間には「自然状態」(ヘーゲル)しかなく、相互の自由を調停する「普遍意志」(=一般意志)は存在しない。それゆえ国家間の争いは、それぞれの国家の特殊的意思が合意を見いださない限り、ただ戦争によってのみ解決(「法の哲学」)されるほかない、ということになる。」 

 

柄谷の国家観の批判として、竹田は、次のように結論づける。
近代国家の持つ最大のアンチノミーは国家権力の解体と言うことでは解決できない。国家は最低でも人間の自由の相互調整をする権力機構として機能している。問題は別のところにあって、それは諸国家が身を置いている特殊意思同士の対立という状態からいかに「普遍意思(=一般意志)を作り出すかという問題である。それは「近代国家」から、「共同性原理」を抜き取って「近代国家の本質」の発現を可能にするものである。

 

わたしは、国家は資本のためにあるとイメージしてきた。
国家は一つの幻想であって、資本が「労働者」を支配する装置だという単純な図式で考えていた。したがって、資本主義が木から落ちる頃には国境というものは取り払われているものだと思ってきた。
しかし、近代国家が生まれたのにはそれなりの理由がある。
ここでは、人間の「自由」を保障する装置としての国家の機能が、最低でも存在意義としてあるといっている。ということは、近代国家とは、人間が獲得した自由を守る必要から生まれたと言っても過言ではない。
竹田青嗣は、別のところで、こう書いている。

 

「ヘーゲルによれば、近代社会の本質は、人間の「自由」がその本性を展開する基礎条件をつかみ、ついに自らを現実化する時代にあるという点にある。ヘーゲルでは、「自由」は自らの運動の本性によって、「所有」↓「契約」↓「法」↓「市民社会」という形で自分自身を“現実化”(つまり社会化)してゆく。普通このような“形而上学的”ニュアンスに人はつまずくのだが、近代社会の展開の背後には、自分自身を解放しようとする人々の「自由」への強い欲望が常に働いていた,と考えれば、その内実はさほど奇矯ではない。」(「人間の未来」、筑摩書房)

 

ヘーゲルの読みにくさについていっているが,ここの意味は、人間がどのようにして自由を獲得していったかを論じたものである。

 

「ヘーゲルにおいて、「宗教」は、支配されるもの「奴」の自分の隷属的現実についての幻想的な自己解釈を意味する。彼らは「主」への隷属を神への帰依と従属として解釈してきた。したがって、人間の歴史とは、人間の隷属状態の歴史、つまり「奴」の自己理解としての宗教の歴史であった。
だが、「奴」が自由を自覚して、幻想から目覚めるや、これまでの幻想的権威は崩壊し、「人民主権」を原則とする近代国家が不可避となる。ナポレオンの国家は教会権力の国家をはじめて打ち倒した「世俗国家」だが、それは「奴」が自らの自由を「主」から奪い返し、「主と奴の相克の弁証法」としての人間の「歴史」を終焉に向かわせるものであるとされる。」(同書)

 

このような言い方によって人々がどんな風に自由を希求し、それを獲得した瞬間に、死にものぐるいでそれを守ろうとしたかがニュアンスとして伝わってくる。ヘーゲルに従えば、近代国家とは、主と奴の相克の中からうまれた、人間の歴史を終焉に向かわせる究極の装置だったのだ。

 

続く、かもしれない。

| |

« 今更ながらNAMのこと | トップページ | やっぱり、続いてしまう。 »

日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 今更ながらNAMのこと | トップページ | やっぱり、続いてしまう。 »