« 2008年12月 | トップページ | 2009年2月 »

2009年1月

2009年1月24日 (土)

劇評「近代能楽集『綾の鼓』『弱法師』」

Kindai三島由紀夫の戯曲を二人の若手、前田司郎(「綾の鼓」)と深津篤史(「弱法師」)が演出する。

『近代能楽集』は、あちこちで上演されていることを目にしていたが、見るのは初めてである。最初に率直な感想を書いておこうと思う。
『綾の鼓』を見ながら、こんなことをしたら能=謡曲は台無しではないか、と思った。なんのために六百年も前に完成している物語を引っ張り出してこのような改ざんを加えなければならないのか。
三島由紀夫が古典としての能にくっつけた「近代」とはまさに三島が感じていた「近代」というものである。この「近代」はいかにも西欧流の文体と価値観を持っている。その文体はいわゆる翻訳調で「サド侯爵夫人」などの外国を舞台にした物語にはふさわしいが、現代日本の出来事として語るには(後で例を示すが)言葉が異様に「もたもた」している。
また、その価値観は西欧社会がまさしく近代になって獲得した「ロマンティック・ラブ」を至上のものとして掲げているように見える。近代というものが、抽象的で曖昧で不確かなものにたいして、具体的で誰にも分かりやすい明晰性を、あるいは主体の確実性を要求したのであるから、男と女の関係も厳しく対峙していることを前提にしなければならなかった。「ロマンティック」とは、「神への愛」と峻別する意味に加えて、主体性の相克にふりかける甘い粉砂糖のようなものである。

僕は、2003年12月に見た山崎正和の「世阿彌」の劇評をこのように始めている。
「将軍義満の愛妾、葛野の前(寺島しのぶ)に懸想して世阿彌(坂東三津五郎)は、これを許される。このとき義満からと言って葛野が差しだした鼓、手に取るとこれが皮の代わりに綾織を張ったもの。打てと命ぜられるが、音が出るはずもない。うって響かぬならば世阿彌、満天下に恥をさらすことになる。天の声は、今を時めく世阿彌が打てば聞こえぬものでもない、とけしかける。苦悶し躊躇する世阿彌。しかし、ついに意を決して・・・鼓は打たれた。天から義満の声、『葛野、お前には聞こえたか?』」

山崎正和が、世阿弥の作とも伝えられる「綾の鼓」を巧みに取り入れた場面のことであるが、この場合世阿弥は綾の鼓が鳴らぬことを知っている。知っていて葛野には聞こえることを願ってこれを打つ。恋とは、そういうものだということを山崎正和は伝えたかったのだ。もちろん元の話とは違う。元の話では、聞こえるはずだと信じて、庭掃きの老人は綾の鼓を打ち続けるのである。

「これは筑前の国、木の丸の皇居に仕え給うる臣下にて候。(語り手がいっている。)さてもこの所に桂の池とて名池の候に、常は御遊の御座候。ここに御庭掃きの老人の候ふが、女御の御姿を見参らせ、しづ心なき恋となりて候。このこと聞こし召し及ばれ、恋には上下を分かぬ習ひなれば、不便におぼしめさるる間、かの池のほとりの桂木の枝に鼓をかけ、老人に打たせられ、かの鼓の声皇居に聞こえば、その時女御の御姿まみえ給はんとの御事にて候ふほどに、かの老人を召して申し聞かせばやと存じ候。」

老人はこれを信じ、綾を張った鼓とも知らず 喜んでそれを手に取り御所に聞こえよとばかりに打つ。

「さてもあはれなる事かな、御庭掃きの老人、鼓の鳴らぬことを嘆き、桂の池へ身を投げ空しくなり申して候。まことに老人の心中思いやられて、我らごときの者までも、落涙仕りて候。かの老人賎しき身にて、いつの折りにか女御を見奉り、しづ恋となり申して候ふを、君きこしめし、桂の池のほとりなる、桂の木の枝に、綾にて張りたる鼓を掛けおき、この老人にこれを打たせられ、音の出で候らはば、思う望みを御かなへあらうずるとの御事にて候間、老人は喜び、綾の鼓とは夢にも知らず、罷り出でて打ち候へども、もとよりさらに鳴り申さねば、これを悲しみかように空しくなり申して候。・・・それにつき我らの推量には、かの老人賎しき身にて、よしなき恋をやめさせ御申しあろうずるとの、御謀かと存じ候。」

筑前の国に御所があった事も行幸すらあったことはない。謡曲に詠まれる場所や出来事はそもそも障りがあるとして曖昧模糊とさせるものだ。障りをそぎ落として、主題を際立たせる、というのが作劇の常套である。
老人の「しづ恋」は本当だったのだろうが、その望みはわずかに、女御の御姿を一目みたいというものにすぎなかった。謀と知って、老人は池に身を投げはかなくなるが、この物語は老人が怨霊となって女御に取りついてからの方が長い。むしろ恨みの深さが主題になっているのである。

三島由紀夫は、御庭掃きの老人を法律事務所に雇われている老小使い、岩吉(綿引勝彦)という設定にした。舞台は中央に空、真ん中から二つに分け下手をビルの三階にある法律事務所、上手は法律事務所と道を隔てて向かい合うビルのやはり三階にあるブティックである。この二つの部屋はガラス窓によって隔てられているが、互いによく見える。
岩吉は、ブティックの客の一人である華子(十朱幸代)に恋をした。自分が事務所で育てている鉢植えの桂の木になぞらえて、桂の君と呼んで、毎日ラブレターを書いた。書いて出さなかった手紙が七十通、書いては焼いた。
しかし、思い直して書いたものをこのところは事務員の加代子(内田亜希子)に届けさせている。加代子は毎夕向かいのビルに手紙を運んだ。今日で三十通目、合計百通になるのである。
ブティックでは、経営者であるマダム(多岐川裕美)をはじめ、踊りの師匠、藤間春之輔(国広富之)、戸山(奥田洋平)とその友人である外務省の役人金子(金替康博)が、奥様=華子の仮縫いのために集まっている。戸山と金子は華子の取り巻き、藤間春之輔はパトロンの華子に舞踊劇の切符を引き受けてもらおうとしている。
そこへ、加代子が百通目のラブレターを運んでくる。
一同は、老人のくせに華子に思いを寄せるとはけしからんと、この手紙を華子に手渡す前に開いてしまう。そこには「思いは日ましにつのるばかり、老いさき短い身を、ひねもすさいなむ恋の鞭の傷あとをいやすには、ただ一度の、・・・・・・ただ一度の接吻(くちづけ)・・・・・・」とあった。
いよいよ頭に来た連中は、岩吉をいじめてやろうということになり、一計を案じる。藤間春之輔が持っていた舞踊の小道具である綾の鼓に手紙を付けて投げてやり、それを打って、音がこちらに届けば、桂の君に会わせてやると伝える。
岩吉は喜んで、鼓を受け取りこれを打つ。しかし、音は出ない。何度打っても鼓は鳴らない。その姿を窓越しに見ていた一堂は体を震わせるほどの大笑い。岩吉は騙されたと知って、三階の窓から身を投げて死んでしまう。
一週間後、ブティックの暗がりに華子が現れる。亡霊となった岩吉が呼んだのだ。亡霊は華子に怨言を言う。自分は真心ゆえに愚弄されたと。しかし華子の言い分は、あなたは単に年寄りだったからからかわれただけで、私に祟るというのはお門違いだというのである。それに「あなたはまだ恋の化身とはいえませんわ。・・・・・・あなたの恋が形をとるには、もう一つ何かが足りないんだわ。今の世の中で本当の恋を証拠立てるには、きっと足りないんだわ。そのために死んだだけでは。」
女の中には恋の証拠がいっぱいだと華子はいう。その証拠を出したら最後、恋でなくなるような証拠がいっぱいだと。女が証拠を持っているおかげで、男は手ぶらで恋をすることができるというのである。華子は証拠の一つとして、昔三日月と呼ばれたスリだったという。腹に三日月の入れ墨がある。男に入れられたのだ。亡霊は、それを聞いて二度も自分を愚弄するのかと怒る。しかし、華子はひるまない。あなたに愛されたから私は強くなった。しかもあなたは本当の私を愛していない。すると、そんなことがあるものかと亡霊はむきになって、鼓が鳴らなかったからそういうのだろうという。
今度は鳴らして見せるといって、鼓をとりだしこれを打つ。すると鳴らないはずの綾鼓がポンと鳴る。ところが、華子は聞こえないという。これでもかと亡霊は打ち続けるが、華子には聞こえない。いや、聞こえているのかもしれない。
亡霊は、打ち続けて百まで数えるともはやこれまでと「桂の君」に別れを告げ、消え去ってしまう。華子、「あたくしにも聞こえたのに、あと一つ打ちさえしたら・・・・・・。」と、これは手紙の数にかけてある。

よくできた翻案だという向きもあるだろうが、まともに考えると随所にかなり無理がある。弁護士の小間使いがどんなものか知っているものにはちょっとどうかと思うが、法律事務所の老小使いが、向かいのビルの窓越しに時々見える「奥様」に恋をする、というのはあり得ないことでもない。しかし、その思いをラブレターにしたためて七十通も書いては焼く、それに飽き足らず、後三十通は実際に事務員の女に届けさせる、というのは度を超えている。いや、そこまではあってもいいとしよう。しかし、その内容が「 老いさき短い身を、ひねもすさいなむ恋の鞭の傷あとをいやすには、ただ一度の、・・・・・・ただ一度の接吻(くちづけ)・・・・・・」というのはどうか?老人の割には肉欲を生々しく語るではないか。そこが「近代」だというのだろうが、六百年前の庭掃きの老人が、かいま見た女御に接吻を望んだだろうか。違和感がある。六百年、接吻という習慣がないのにとってつけたようで気取っている。弁護士の小間使いがこんなふうに見栄を張ることは考えにくい。
「奥様」が実はスリで、男に騙され入れ墨までしている世慣れた女、というのはこの戯曲の唯一面白い工夫で、憤死した老小使いの夢を打ち砕いて現実の厳しさを示した。現実というのは、女としては男が勝手に恋をして勝手な想像を押し付けられてはかなわないということである。亡霊と華子のやり取りには何か意味があるように思わせぶりだが、ただ単に男は勝手な夢ばかり見て暮らしているのに、女はもっと現実的だから男の夢には付き合えないといっているだけだ。そのとおりである。実に身もふたもない結論だったのだ。こんなものに感心しているようでは、先が思いやられるのである。

さらにいえば、言葉が異様にもたついているといったのは、例えば華子の取り巻きの会話である。
金子 このじいさんは自分一人苦しんでいると思っている。そのうぬぼれが憎た
   らしい。われわれだって同様に苦しいんです。ただそれを口外するかしな
   いかの違いですよ。
藤間 私どもには慎みというものがありますからね。
戸山 僕だってこれくらいのことは知っていますよ。僕たちはみんな軽佻浮薄
   で、あのじいさんだけが本当の恋を知っているといいたそうな口ぶりが
   癪に障るよ。
金子 われわれだってこんな悪い時代に生きていて、自分をごまかすためにどれ
   だけの苦しみを重ねているか、見せられるものなら見せてやりたいよ。
藤間 古風な人はし方ありません。この世の中に恋の特別席があると思っている
   んでしょう、おそらく。

こういうせりふを目で追っているだけでは分からないが、演出の前田司郎が、ほとんどお手上げの状態で、ほぼこのままのリズムでいわせるものだから、まるで大正時代にいったような気がするのである。書かれた言葉はまともだが、芝居としてのリアリティに乏しい。前田の師匠の平田オリザが添削したらもう少し生き生きとするのじゃないかしら。

キャスティングにも問題はあった。華子の十朱幸代は久しぶりに見たが、容姿が変わっていないのには驚いた。確かに華があって美しく、一目ぼれするものがあってもおかしくない。ところが、第二場で亡霊と対峙するところでは残念ながら迫力不足であった。それは演技の質と関係する。
岩吉の綿引勝彦はミスキャストである。広い肩幅に分厚い胸、坊主頭にぎょろ目では恋などという生易しいものにはならないだろう。即刻ストーカーになって何かしでかしそうに見える。前田司郎も勝手にしてくれとしか言い様がなかったのだろう。
唯一、多岐川裕美だけは意外な一面を見せてくれて収穫だった。

「弱法師」の方は、もともとの話とはかけ離れたものにしてある。
河内の国高安の左衛門尉通俊が、讒言によって家を追いだしてしまった息子俊徳丸の二世安楽のために天王寺で施行をする。そこに盲目となって弱法師と呼ばれている実は俊徳丸が施行を受ける。弱法師は仏の慈悲をたたえ、我が国最初の仏教の寺、天王寺の縁起を語り、心眼にて景色が見えると達観する。盲目ゆえ、往来の人に当たって転び倒れたりする様子を窺っていた通俊は、すでにそれを我が子と覚っていた。夜になって自らを名乗り、恥じ入る俊徳丸を捕まえて、高安の里に帰る。とういうのが元の話である。

こちらは、息子俊徳(木村了)と空襲で別れ別れになった高安夫妻(国広富之、一柳みる)が、川島夫妻(鶴田忍、多岐川裕美)のもとにひろわれ育てられていた俊徳を見つけだし、自分のところに引き取ろうとして裁判になるという設定になっている。舞台は裁判所、調停委員の桜間級子(十朱幸代)が間に入ってどちらに引き取られるのが適当か判断しようという裁判劇の一種である。

これは現代でもありうる話で、そうとっぴな翻案でもないからたいした違和感はない。俊徳を金髪の美男にしたのは三島好みに深津篤史が気遣いをしたのだろう。
あまり言うこともないが、一つだけ指摘しておきたいことがある。
それは、十朱幸代のところでいった演技の質ということである。
高安夫妻と川島夫妻の二組の夫婦が並んで客席に向かい証言をする場面がある。
鶴田忍と一柳みる、国広富之と多岐川裕美の二組の俳優の芝居がまるで異質なのだ。鶴田は俳優座の養成所をでて主に新劇畑で仕事をしてきた。一柳みるは、玉川大学の芸術学科から劇団昴に入ってこれも主として舞台で活躍してきた。国広富之と多岐川裕美はテレビドラマ+映画出身の俳優である。
どちらがいいとかいう問題ではない。舞台においては全身がさらされているために、一つのせりふを全身で表現しなければならないし、そうしなければ観客にそのようには見えない。舞台では、うつむいて泣く時には肩を振って全身を震わせなければ泣いていると映らないのである。映画やテレビは部分を撮るから顔のアップに涙がこぼれていればそれですむ。大げさに体を震わせるのはかえってわざとらしく見えるものだ。
こういう違いがあるから、客を集めるからといって、映画やテレビでよく知られた俳優を起用するという考えは安易である。舞台という場所できちんと芝居ができるかどうか、よく検討したほうがいい。

新国立劇場の芸術監督をめぐって騒ぎがあったことは周知である。天下り役人の専横があったとかなかったとか真相は定かではないが、公演の採算を考慮するあまり、商業演劇のようなスターシステムは、上のような理由で公立の劇場にはなじまない。税金を使う施設なのに、役人と財界、演劇関係者がバラバラなのも変なものだが、観客代表、つまりは国民代表が入っていないのはもっと変だ。このことを考えないといけない。

ところで、話をもとに戻すが、三島由紀夫は「近代能楽集」を書くに当たって、「能楽の自由な空間と時間の処理や、あらわな形而上学的主題などを、そのまま現代に生かすために、シチュエーションの方を現代化した」といっている。そのために謡曲全集を渉猟するのがくせになったらしいが、その基準で「現代化に適するものは」五編(後加えて計八編)にすぎなかった。四百あまりある謡曲を読んでたったそれだけのものである。
ならばなぜ、わざわざそんなことをしなければならなかったのか?
三島由紀夫はこの時三十才をわずかにこえたばかりである。小説家が尊敬されるいい時代で、すでに大家先生の呼び声は高かった。王朝趣味もあって、小説の素材を探すにはうってつけと思ったのかもしれない。
「現代化」可能と見た綾鼓では、老庭掃き人であるところの岩吉に「接吻」をせがませたところが「現代化」で、老庭掃き人の真情に「接吻」という欲情がすでに潜んでいたと解釈したに相違ない。しかし、そんなことがあるはずはない。三島のいっている「現代化」とはなんのことはない「西欧化」にすぎないものだった。それが、われわれにとっても三島にとってもただひとつの「近代」だったのだから。
要するに近代能楽集というのは謡曲に西欧的素養による解釈をほどこそうとしたものである。それに気付かなかったのは、「あらわな形而上学的主題」といっているものと西欧のアリストテレス以来の形而上学的主題にあたかも共通項があると思い込んでいるからである。そんなものがあるはずがない。
謡曲が六百年もの間ほとんど変わらずに残ってきたのは、それだけ揺るぎない強固な形而上学的主題があったからで、たかだか百年前の「近代」によって解釈も変容もされないものである。

本当は、謡曲にもとがあるといっても、もっと自由に創作されてしかるべきだと思うが、若さゆえのこだわりが邪魔をしたのであろう。その意味では、「弱法師」の方が「現代化」されていて面白いといえるのではないか?
「綾鼓」もラブレターなどという無粋なものではなくて、せめて歌を詠んだ短冊ででもあったなら、もう少しは評価してもよかった。

題名: 近代能楽集「綾の鼓」
観劇日: 2008/09/26
劇場: 新国立劇場
主催: 新国立劇場
期間: 2008年9月25日~10月13日
作: 三島由紀夫
演出: 前田司郎『綾の鼓』 深津篤史『弱法師』
美術: 池田ともゆき
照明: 小笠原純
衣装: 半田悦子
音楽・音響: 上田好生
出演者: 『綾の鼓』 綿引勝彦  金替康博  奥田洋平 岡野真那美 国広富之
内田亜希子 多岐川裕美 十朱幸代
『弱法師』 木村 了 鶴田忍 
一柳みる  国広富之 多岐川裕美

 

| | コメント (0)

2009年1月12日 (月)

劇評「枕草子が好き」

Makurano中目黒の山手通りから一本入ると平行して長い商店街があった。駅の後背地は住宅街だからああいう個人商店の集合体がいまだに成立している。地方ではめったに見られなくなった光景である。車で行ったから止めるところがなくて閉口した。あてずっぽうで再開発らしい超高層ビルの地下に停めたら、幸いそのすぐそばに劇場があった。近ごろではどういう加減か、東京中のあっちこっちに劇場ができて、結構なことだがなにをやっているのやら。新聞やTVの文化部も金をかけた芝居の記者発表とやらにはほいほい出かけて愚にも付かない提灯記事を書くのに、マイナーな劇場の取材なぞする気も無いのだろう。何が起きているのかさっぱりである。
大新聞もTVも自分の嗅覚を働かせて取材する記者などいないらしい。若者が「動物化」なら大企業の社員は皆「官僚化」、言い訳ばかり探して仕事は下請け任せ、自分じゃ何もしようとしないし、できもしない。どうなってんだ我が国は!まったくマスコミにしてからが、偉そうな顔して踏反り返っているが、何も知ろうとはしない、あれこそ文化果つるところだね。とまあ、いいたいことはまだあるが、とりあえず古老の気分で愚痴をこぼしてみる。

そんなこといってる場合じゃなかった。芝居のことである。
なんとも奇妙な公演であった。開幕は、騒々しいロックの響きとホリゾントに映し出される激しい動きの映像である。ところがホリ換りの御簾の奥に数人の人影?あれはなんだ。とりあえず音楽入りで「枕草子」とはどんなものかという入門編を紹介し、それが文字通り枕になっているという工夫である。
昔「ピーター・グリーナウエイの枕草子」という奇妙な映画があったが、一瞬あれを思い出した。女の裸に文字の映像を投写するというエロティックな場面が有名であった。「枕草子」のどこを探せば裸が出てくるのか?西洋人の東洋理解がばかばかしいことの見本のような映画で、そこだけよく知られている。
明かりが入ると、「る・ぱる」の三人(松金よね子 岡本麗 田岡美也子)がパソコンをのぞき込んでいる。今流行のブログを書いているらしい。この連中はどこか大企業のOLという設定である。そのうちの一人が、いきなり「春は曙・・・」と朗読を始める。一通り読み終えると今度は脇のふたりがそれに現代語で茶々を入れる。
「ひとにあなづらるゝもの」を朗読。茶々が入る。同じように「にくきもの」「過ぎにしかた恋しきもの」「心ゆくもの」と続いていく。作家の批評精神は辛辣である。それを現代の女性が解釈して批評を加える。まるで古典の勉強だ。
清少納言は、一条天皇の中宮(後に皇后)定子に使えていた女官である。定子の信頼は厚い。だから宮廷の行事や政、人間関係についてつぶさに知りうる立場にいる。大きな会社には必ずいる御局、古参のOLみたいなものである。これが会社の中の出来事や人事などを歯に衣着せぬ勢いで、ああだこうだと決めつけては、ばったばったと切りまくる。実に小気味がいい。
背景になっている人間の相関図もさりげなく紹介してくれる。
飛ぶ鳥落とす勢いの藤原道長が、自分の娘彰子を一条天皇の中宮として押し付けたのだが、その彰子に仕えたのが紫式部。したがって、部下同士の仲がいいわけはない。清少納言は、当時女性としては珍しく漢詩についての素養があることを知られていたが、紫式部にはこれが気に障っていたみたい。とか、夫の橘則光と別れたのも教養が邪魔をした、とか。道長と関係があったとかなかったとか。
と、途中で一同が素になって「皆さん、ここでBGMを演奏していただいている雅楽の奏者をご紹介します。」と急にもうひとつお勉強の時間になる。御簾が上がると、烏帽子を被り正式の装束に身を包んだ十人ばかりの男女が並んでいる。笙(鳳笙)、篳篥(ひちりき)、龍笛(横笛、おうてき)他に太鼓と鉦、楽箏などそれぞれが持っている楽器が紹介される。中でも、笙は細竹が十本ほど束になった笛の一種だが、リードのところに結露すると音程が狂うというので、常に火鉢や電熱器をそばにおいて暖めながら吹くというのを初めて知った。千年以上も形を変えない世界最古の楽器だそうだ。すぐには気付かなかったが、女性が何人か含まれていることは意外だった。
東儀秀樹がどこかでいっていたが、自分の家は何代続いているかはっきりしないが、この楽器の演奏を千年以上受け継いできたことは間違いないということだ。恐ろしく長い間連綿と続いてきた文化である。それをこうしてさらに次の時代につないでいく人々が確実にいることに驚きと安心を感じた。普段雅な音楽と何気なく聞いているだけで、こんな機会でもなければ知ることのなかったことばかりであった。ひとしきりありがたいお話と演奏を聴いた後、雅楽の一同が退席し、再び朗読とそれに対するひやかしが続く。
清少納言は、優秀な女性であった。優秀すなわち幸福かといえばそんなことはなかったと生涯を推し量り、それでも世間に向かっていいたいことはいうとパソコンのキーボードをたたく。ブログはやめられないというのである。

「枕草子」に雅楽の紹介が加わるというのは、どう考えても唐突である。生田萬が構成を考えたとあるが、これでは何だか無理やり雅楽を突っ込んだとしか言い様がない。他の部分はよく考えられていて、朗読に対するコメントはOLらしく的確で辛辣、納得のいくものであった。つなぎあるいはまとめのイメージを映像に頼る傾向があったが、それはこの場合やむを得なかったかもしれない。劇中の映像というものはいい加減なものが多いが、この映像と選曲のできがなかなかによかったので雅楽さえなければ、ひとつのまとまった劇になっていた。何しろ「る・ぱる」の役者にあて書きだったのだろうから、悪くなるはずもない。生田萬の並々ならぬ力を見せた佳作といえる。

それにしても、なぜこういう劇ともイベントともつかぬものになったのか不思議に思って、もう一度パンフレットにあたってみたら、「グループ る・ぱる」の芝居とばかり思っていたものが、 エムスクウェアズカンパニー・プロデュースとあった。
この「エムズ・・・」がなにかというと、「ウッディシアター中目黒」のマネージャー森脇恵が代表を務める会社らしい。つまりは、劇場主催の公演だったのだ。

森脇の口上にいわく。
「今やブログは老若男女関らず、それぞれの個性で発信され、アクセス数のランキングも日々公開されており、それによって一個人が突然の注目を浴び、人気者としてメディアに登場する機会も珍らしい事ではなくなりました。それだけグローバルにネットワークが拡がったと言う事ですから、まさにこの時代なればこそ・・とお考えの方も多いはず。
けれど・・ぃぇぃぇ・・
1000年と少し前、正しく『ブログの女王』が日本に実在したのです!
その名は清少納言。ブログタイトルは「枕草子」。“春は曙”で始まるこの文章は、古典の教科書の定番。在学時代に暗記させられた経験をお持ちの方も多いと思われ、美しい日本語として記憶されている事でしょう。そして作家である清少納言のイメージは自ずと、教養高く、物静かで慎み深く・・と!?
 と~んでもないです!
 全300段、お読みになればきっと確信される事でしょう。確かに教養高くはあるけれど、男の事も、上司のことも、デキない奴の事だって、歯に衣着せず言いたい放題の書きまくり。好き嫌いを臆さず発信することが出来る、自由奔放で逞しいお方であったのだと。そしてまた、女性であれば気づくのです。『ぇぇっ!1000年経っても、女を取り巻く環境や、モチロン女心のトキメキだってちっとも変わってないじゃないっ!』とね・・。
 本公演は、これまで余り古典に触れた事の無い方にも親しんで頂ける様、ブログ「枕草子」を今を生きる女性の言葉に変え、朗読ではなく現代語で“語り”、美しい雅楽の調べと共に、皆様にお届けしたいと考えております。」

つまりは「枕草子」をブログと見たてれば、古典に縁のない現代人にも分かりやすいのではないかというのである。そして、浮かび上がってくるのは千年前の女性も、今と同じような環境に置かれ、同じ悩みを抱えていたということだといいたいらしい。ついでに雅楽にも親しんでもらいたいといっている。
啓蒙の精神は実に立派である。

生田萬は、この森脇恵の仕掛けた「トラップ」に引っかかったといっている。
「●はじまりは、こんな都市伝説でした。――『枕草子』を通勤電車のバイブルにしているアラフォーな女が、車内で文庫を読みふけり、「あるある・・・」とか「ないない・・・」とかひとりで「クイズ100人にききました!」をやってるらしいというのです。教えてくれたのは、ウッディシアターのマネージャーM女史。もしかしたら、ぼくを今回の企画に引きずり込むため、彼女が捏造したフィクションだったのかもしれない。でも、そう気づいたときにはすでに、ぼくは「砂の女」の蟻地獄にはまった旅人状態。『枕草子』から抜け出せなくなっていたのでした。
●伝説の電車女にならい、手当たり次第に文庫を漁ったぼくは、『枕草子』の行間からあふれる「女、生きてます!」感に圧倒されまくりました。平安と平成。千年の時の隔たり。そんなものをまるで感じさせない「女性であることのリアル」? 同時に、『枕草子』の男性の研究者がみな「清少納言ギライ」になるという、その気持ちもわかってきた。たとえていうと、「朝まで生テレビ」の激論に耳をそばだてているこちらの脇で、一緒に見ていた彼女が画面の論客たちのネクタイやスーツの着こなしのことばかり悪態をつくのにウンザリするような、そんな気持ちです。
●天下国家を論じもせず、神や仏への信仰心に真正面から向き合うこともない。『枕草子』に描かれた世界は、小さく、狭い。でも、それは宮中の後宮という隔離された特殊な小空間が強いたものであって、決して「表現」の小ささ、狭さではない。むしろ「表現」としては徹底的に表層的だと思いました。「小さな世界」の外部を夢想する代わりに、清少納言は、その内部をこれでもかとばかりに撫でまわす。デコボコや微細なヒダヒダ、温もりや冷ややかさをあますことなく語り倒す腕力が、ぼくら男どもをタジタジとさせるのです。
●時代はどれだけ変わっても、女性性は不変/普遍――などと思わせるだけのリアルを、ぼくは『枕草子』に感じていました。でも、ちがうんじゃないのかな? それは、「女って結局変わらない」なんてことではなく、たとえ千年経っても男性中心な社会から隔離されて生きざるをえない「女の現在(いま)」が変わってないってことなんじゃないの? と、そんな結論めいた話をM女史にすると、「そうなんです。その視点が必要だから、構成演出を女性ではなく、あえて男のあなたに頼むのです」。巧妙なトラップにかかったぼくの蟻地獄暮らしは、そうして、いよいよ現実のものとなったのでした。・・・」

生田先生は、「たとえ千年経っても男性中心な社会から隔離されて生きざるをえない『女の現在(いま)』が変わってないってことなんじゃないの?」と思っているらしい。それに同意した森脇女史とは、近ごろあまりはやらないフェミニズムの闘士なのだろうか?

しかし「枕草子」をブログと同じようなものとして鑑賞すれば、宮廷の日常について、そこで暮らす細々とした感想をつづったものだから、必然的に「そういう」結論に達することは間違いない。そこで、千年経っても女の立場は変わらないではないかと嘆いて見せるのはフェミニズムのテーマとしては結構ではあるが、そこから先、どうしようというのだろうか?

僕などは、むしろ「千年経っても、ひとの心はそんなに変わりはない」ことに驚きを禁じえないのだが、「女の立場」は大いに変わってしまったと思っている。いや、確かに大きく変化した。清少納言が今に生きていたら、政治や文化経済に至るまで鋭いコメントを繰り出す評論家になっているに違いない。したがって、「枕草子」からそのような狭い世界でちまちま愚痴をこぼしていた印象を受けるというのは単なる偏見でむしろ間違いである。あの時代に、あれだけの感受性で自分と世界を見ていた人間はまれである。
千年前の「ブログ」と見なすことによって、古典に親しみやすく、という啓蒙主義もはっきり言えば百害あって一利なしである。そこらのお姉ちゃんが、愚にも付かない感想を書きなぐっては消えていく消耗品みたいなものと同じにしては断じてならない。

どうも変な公演だと思っていたが、清少納言を「ブログの女王」などと見なす軽薄さ、唐突な雅楽の挿入によって啓蒙を図る性急さなど、まとまりを欠いた出し物は、森脇恵の発想で、こういう考えが浮かぶ頭は悪しき「教養主義」の権化みたいなものである。
現代における「枕草子」の意味は、いかに作者を現代人に近づけるかという点にはなくて、むしろ清少納言の批評精神、ものの見方、感受性に学ぶことである。ついでに雅楽をやるならその「鑑賞」の手引きをまじめにやることだ。楽器の紹介はその第一歩に違いないが、本丸は「鑑賞」することである。したがって、このような劇中に挿入するといった中途半端なかたちで見せるのはどうか。プロデューサーなら後日観賞会でもやって責任を全うすべきだろう。

生田萬は、まんまと森脇に乗せられて、つい「千年の間、女の立場は変わっていない」などととんちんかんなことをいわされたが、リップサービスに違いない。今後は、女の言うことには細心の注意を払うべきだ。何しろ敵は手ごわく、恐ろしく、そして少しだけ美しい(といっておこう)。銀粉蝶でいやというほど知っておろうに。

題名: 枕草子が好き
観劇日: 2008/09/12
劇場: ウッディシアター中目黒
主催: エムスクゥエアズカンパニー
期間: 2008年9月10日~9月14日
作: 生田 萬 原作:清少納言
演出: 生田 萬
美術: 伊藤麻紀 
照明: 池田圭子
衣装: 伊藤麻紀 
音楽・音響: 柳原健二
出演者: 松金よね子 岡本麗 田岡美也子

    (雅楽演奏)・・八木千暁 三浦礼美 新井悠 井坂信諒 芳賀育実 佐藤彩 清水瑞衣 金子詩香 中 保之

| | コメント (0)

2009年1月 6日 (火)

劇評「戸惑いの日曜日」

Tomadoiタイトルに「『アパッチ砦の攻防』より」とあるのは、96年の初演の時にはその題名だったものが、再演のたびに登場人物が増え続けて、とうとうタイトルを変えてしまったものらしい。そうはいっても、舞台となっているのはいわゆる億ションである「『フォートネス・アパッチ301号』のリビングルーム」で変わっていない。なぜ変える必要があったのかは不明である。
何年か前に偶然WOWOWでやっているのを見ている。その時はどっちのタイトルだったか確かめていないが、佐藤B作と伊東四朗の「攻防」が面白くて、物語はいたってシンプルだったような気がする。今度のは、やたらに関係者が多くなって騒々しくなったがそれほどやる必要があったかどうか?

マンションのリビングで、鏑木(升毅)を尋ねてきた娘ちよみ(中澤裕子)が結婚することになったと報告している。婚約者を紹介したいと呼びにいくと、入れ替わりに一人の男がゴルフバッグを担いで入ってくる。この男鴨田巌(西郷輝彦)は、鏑木を見て『君は誰だ。ここで何をしている?』という。何だか様子が変だ。

実は、鏑木は数日前までこの部屋に住んでいたのだが、事業に失敗して借金を負い、マンションを売却したのであった。それを購入したのが鴨田で、今やこの部屋の持ち主である。鏑木は慌てて、自分は近所の電気屋だが奥さんにテレビの配線を見てくれと言われてきたという。「それなら早くビデオが見られるようにしてくれ。」と鴨田。
娘から電話をもらって、見栄っ張りの鏑木が、家を売ったとは言えず日曜に会う約束をしていた。この家の奥さん、鴨田まち子(石野真子)が電気屋に配線を頼んでいるのを小耳に挟んだ鏑木が、この日電気屋になりすましてまんまと家に入り込んだのであった。亭主はゴルフとばかり思っていたら、腰が痛むといって途中で引き返してきた鴨田と出会ってしまったのだ。困ったことになった。まもなく娘が婚約者の男(小林十一)を連れて戻ってくる。

娘たちとは、どうやら鴨田をごまかして会うことができたが、それで終わりというわけにいかなかった。その時の話では、娘の母親、鏑木にしてみれば二十年前に別れた元妻(あめくみちこ)が久しぶりにやって来るというのである。また、婚約者の両親がたまたま近所に来たからちょっとご挨拶に寄りたいといってくる。逃げ出すわけにもいかず、鏑木は鴨田とその奥さんをごまかして、他人の家をわが家のように見せかける綱渡りの対応を見せる。
そのうちに本物の電気屋(小島慶四郎)が現れ、これをリビングから遠ざけると、こんどはフィリピンパブで知りあった鏑木の現在の同棲相手がやって来る。そこへ、鏑木の正体を知っている不動産屋の寺門(佐渡稔)が、なんと鴨田の妻の浮気相手として登場、いよいよ鏑木は窮地に立たされることに・・・

どたばた、はらはらさせながら大いに笑わせてくれる傑作喜劇である。まともに考えたら「ありえねー」というシチュエーションでも、とにかく強引に見せてしまうところが作家の手腕で、三谷幸喜の才能はこういう芝居にもっともよく発揮される。初演の佐藤B作と伊東四朗の組み合わせは、なんとも『おかしみ』の迫力が違っていたが、ひょっとしたらあて書きだったかもしれない。こういう究極の窮地に立たされてのらりくらりどうにかごまかしていくのは、B作得意の役どころで、一方の伊東四朗は知らんぷりして残酷なまでにぎりぎりと突っ込みを入れるのがもともとの身上である。

こんどは佐藤B作がガンの手術後の療養ということで、やむなく降板したらしいが、升毅でわるいこともなかった。難を言えば、「二枚目」過ぎる点と少しまじめに見えることくらいか?西郷輝彦は、すでにこの役を何度か経験しているようだ。伊東四朗と比べるまでもないが、俳優としての舞台経験の豊富さはそれなりに現れていて、一味違った鴨田を表現していたといえる。
石野真子、中澤裕子といったアイドル歌手出身の女優もそれぞれ役どころを得て無難にこなしていたが、細かいことをいえば、せりふと動作のお仕舞に締まりが無い。多分に演出の責任だが、こういう基本はきちんと教え込んでおかなければならない。
また、松竹新喜劇の小島慶四郎はさすがに出てきただけで「おかしさ」がそこら中に漂う怪優であった。こういうベテランを前にしては、升毅も迫力不足といわれても文句は言えないだろう。この「本物の電気屋」を見ただけでも木戸銭分はあったというべきだ。

どたばたに終始していた芝居のお仕舞を、しんみりとした人情喜劇として締めくくったところが、 三谷幸喜の偉いところで、これでサンシャイン劇場にやってきたご婦人方も満足だったろう。
こういう肩の凝らない芝居もたまには見たらいい。


| | コメント (1)

« 2008年12月 | トップページ | 2009年2月 »