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2008年11月

2008年11月19日 (水)

劇評「人類館」

Zinruikan もともと三人の登場人物によって上演される劇であるが、津嘉山正種がどうしても一人でやりたいといってきたので、一も二もなく承知したと作者であり演出家でもある知念正真はいっている。ト書きも台詞も全部読み上げるという舞台がどんなことになるか想像もつかなかったが、かつての芝居仲間である津嘉山ならウチナアグチ(沖縄方言)も心配ないから好きにやって結構と返事したそうである。
津嘉山が倒れたと聞いたのは、その少し前だったから、病み上がりに一人語りなど大丈夫なのかと思って代々木八幡に出かけた。例によって、チケットはYがとったものなので内容は分かっていない。

何もない空間に質素な机が一個置かれている。辺りは暗い。和服姿(といっても沖縄地方のものだろう)の津嘉山が灯りに浮かび上がり、静かにト書きを読み始める。
「舞台中央に、まるでお芝居のセットのような粗末な茅葺き小屋がしつらえており陶器類、紅型、スルガー、ニクブク、くば笠、ムンジュルー傘に至るまで、いわゆる『大和人』が沖縄について、持っている知識のありったけを、辺り構わず、それももっともらしく、飾り立ててあるという体である。
小屋の一方の柱には、稚拙な字で『リウキウ、チョーセンお断り』と書いた札さえぶら下がっている。これらの民芸品に混じって一組の男女が陳列されている。……」
続いて調教師風な男の台詞。
「皆さんこんばんは、本日は我が『人類館』へようこそおいでくださいました……」
男の口上は、香具師とか呼び込みのような調子で次のようなことを蕩々と述べる。すべての人間は法の下に平等であり、その基本的人権は尊重されなければならない。いついかなる意味においても差別はいけない、それは人類普遍の原理である。しかるになぜどのようにして差別がうまれ、行われるかと言えば無知蒙昧、偏見が原因だ。ならば無知を一掃し、偏見をただして差別をなくすにはどうすればいいか?そこにこの『人類館』の果たすべき役割が存在する。
ここでは地球上で差別されているあらゆる人種すなわち、黒人、ユダヤ人、朝鮮人、アイヌ、インディアン、エトセトラ、エトセトラ・・・・・・を取りそろえて彼らの日常の暮らしを見ることができる。それをよく見れば、「彼らも我々と同じ人間なのに・・・」と気づくはずで、そうなればきっと彼らに友愛の情がわいてくるだろう。それこそが待望久しいこの学術人類展の目的なのである。
男の口から繰り出される話に驚いた。「人類館」とはいやな予感がしていたが、文字通り人間を展示して見せている見せ物小屋のようなものだった。調教師風の男は、長い鞭で琉球人の男と女を威嚇しながら、あちこち向かせてその身体的特徴を学問用語を使って説明し始める。

明治三十六年(1903年)大阪天王寺で行われた第五回内国勧業博覧会において、実際に行われた「学術人類館」事件を元にした話である。事実がどうであったかは、この際あまり重要ではないが、一通り見ておくことにする。
この博覧会は、日清戦争後の一種高揚した気分を背景に、大日本帝国の国力を内外に示す目的で開かれたものだが、その中にあったパビリオンの一つで展示されたものである。人類学者坪井正五郎の発案で作られたというから文字通り学術的な展示のつもりだったのであろう。記録によると、
「内地に近き異人種を集め、其風俗、器具、生活の模様等を実地に示さんとの趣向にて、北海道のアイヌ五名、台湾生蕃四名、琉球二名、朝鮮二名、支那三名、印度三名、同キリン人種七名、ジャワ三名、バルガリー一名、トルコ一名、アフリカ一名、都合三十二名の男女が、各其国の住所に模したる一定の区域内に団欒しつつ、日常の起居動作を見する。」という予定だった。
これを見た沖縄県民が不快に感じるといって新聞を中心に抗議のキャンペーンを張る。たとえば、沖縄県出身の言論人太田朝敷の言い方はこうである。
「学術の美名を藉りて以て、利を貪らんとするの所為と云ふの外なきなり。我輩は日本帝国に斯る冷酷なる貪欲の国民あるを恥つるなり。彼等が他府県に於ける異様な風俗を展陳せずして、特に台湾の生蕃、北海のアイヌ等と共に本県人を撰みたるは、是れ我を生蕃アイヌ視したるものなり。我に対するの侮辱、豈これより大なるものあらんや」
我らを高砂族、アイヌと一緒にするのは侮辱だと言っているところが興味深い。
また、清国からも激しい抗議があいついで、外交問題化しそうだったのでこれはやむなく中止になった。アヘン吸引の男性と纏足の女性が予定されていたと言うからやめてよかった。
学術的とはいえ、大日本帝国が近代国家の仲間入りした気分の中で、当時は差別意識がかなり露骨にあったから事件に発展しても仕方がなかったといえる。

調教師の男は、陳列されている男に近づくと、鞭の柄で顎を上げさせ琉球人の身体的特徴を説明し始める。男は大勢の視線にさらされてうつむいてしまうが、そのとき鞭が鳴り慌てて男が姿勢を正すということがあって、まるで檻の中の動物のような扱いである。
さらに女の方に向き直って、一見我々と同じように見えるが、鼻が高く毛深いという。「親の因果が子にたたり・・・・・・」といよいよ見せ物小屋の呼び込みの口上である。こいつらの住んでいる家ときたら、これこのとおり茅葺きの粗末なもので、鍵もかけない。泥棒がいないわけではないが、なんと盗むものがなにもない。食べているものは芋ばかりと女を鞭でつついて、この体は芋でできている、その上こいつらは渋茶が大好きでどこへ行っても茶ばかりがぶがぶ飲んでいる。それに毒のある蘇鉄の実を食うのは不思議だ、人類普遍の謎だという。
調教師の男がいなくなると、陳列された男は足を踏みならして「あの野郎叩き殺してやる、いつか必ず殺してやる。」と悔しがる。あれだけあなどられ嘲りにあったのでは我慢できなかったろう。女が、さっきまでがたがた震えていたくせにとバカにすると、警官殺しで金網の中にいたことがある、米軍の倉庫に忍び込んでシーツをかっぱらってきたこともあると強がる。
ここで待てよ?と思った。こんなことはかなり昔にはあったかも知れないと思って見ていたが、それではここで展開されているのは米軍がすでに駐留している時代の話、つまり戦後のことなのだ。
男と女が安心して音曲にあわせて踊っているところへ再び調教師が現れて、鞭を振るい勝手なことをやるなと居丈高に制止する。それに対して男と女は、約束が違うと抗議しはじめる。ここに来たら着るものも食べ物にも不自由はさせない、学問もただだと言われたが、これではまるで奴隷の生活だというのである。
聴いていた調教師が男を殴り倒して、鞭で床をたたきまるで動物をおとなしく従わせるようなしぐさで男をなだめると、「てめえら自分を何様だと思っている、怠け者のくせに」とののしり始める。これは教育が足りないせいだ、厳しくしつけなければと調教師。今は一億国民こぞって国難に対処しなければならない時期だ、一命をなげうっても国家に殉じる覚悟がなければならんと叫ぶ。
なんだかまた時制がおかしくなってきた。
俺は沖縄の方言が大嫌いだ、だから日本語を教えてやるといい、真っ先におまえらが覚えるべき言葉はこれだ、威儀を正してよく聴けという。続く言葉は、天皇陛下万歳!
これでは戦時中に戻っている。
この頃になると津嘉山の顔から汗が噴き出し、振り乱した髪の一部が顔にかかってすさまじい状態になっている。時折沖縄地方の方言が速射砲のように飛び出すが何を言っているのかは雰囲気で想像するしかない。
戦時中の話から、ベトナム戦争時代へ飛び、再び戦時中に戻るとそこは沖縄戦における日本軍の集団自決命令の話になる。さらに、敗戦から米国の占領駐留へとつづき、「祖国日本」への復帰運動という波乱の歴史をたどることになる。
そして現代、精神病院にいる。沖縄は精神病患者が最も多いという話は本当かどうか分からないが、時代の変わり目には、非常に深いところで精神を病むものが出るのだという説明にはなかなか含蓄がある。ところがそこから次第に再び沖縄戦の時代に戻り、芋であるところの手榴弾で集団自決があついで、終戦を迎える。「沖縄を返せ」のシュプレヒコールがとどろく中、芋が大音響とともに炸裂して、調教師が倒れてしまう。調教師が芋で死んだとはいえないので死体を隠そうとして椅子に座らせ帽子をかぶせ鞭を持たせると、最初の場面に戻り、「皆さんこんばんは、本日は我が『人類館』へようこそおいでくださいました……」と男がしゃべり出す。そこが精神病院なのかどうかは不明のままである。
そして、ト書き。
「というわけで、芝居は振り出しに戻ってしまった。誠に不本意ながら作者としては如何ともしがたい。御用とお急ぎでない方は、はじめから繰り返してみて頂きたい。いずれにせよ、そう簡単に幕は降りないだろう。
なぜならば、『歴史は繰り返す』ものなのだから・・・・・・・・・」

一人で戯曲を読みあげる朗読劇というのは、早い話がラジオドラマである。僕らが小さい頃は、ラジオドラマをよく聴いた。「ホシを挙げろ」『赤胴鈴之助』(少女時代の吉永小百合が千葉周作の娘さゆり役をやっていた)、毎週日曜日の夜には、森繁久弥と加藤道子が読み上げる「日曜名作座」(五十年間も続いていたとは知らなかった)などに耳を澄まして聴いていた。マクルーハンによるとラジオは聞き手が想像力を駆使して対象を再構成しなければならない参加型メディアで、テレビなどの漫然と見ていても差し支えのないものと一線を画している。これを舞台で見るというのは、ラジオのスタジオをのぞいているようなもので、やや違和感があるが時々目をつむって聴いていたら同じことである。というわけで僕はそうした。そうすると、元もと津嘉山正種はラジオドラマ(朗読)を得意としているから、情景がより浮かびやすい、頭に入るということになった。

知念正真の本は、明治時代に実際にあった「博覧会」における「人間展示」という衝撃的な事件のなかに、琉球差別の問題や太平洋戦争末期の集団自決、祖国復帰運動と米軍基地など沖縄固有の問題を巧みに取り込んで、時には日本に対する痛烈な批判を、沖縄についても自虐的といえるほどの言葉をちりばめてある。それは決してまなじりを上げて声高に叫ぶというものではなく、鞭を持った調教師の男もどこか芝居じみていて滑稽であり、展示された男女の態度も時にユーモアを交え諧謔を弄して軽い。こういう取り上げ方はなかなかの知能犯である。
日清戦争後という時期は、日本のみならず世界中で民族主義があおられ、互いに排斥しあうという傾向があった。入り口は「博覧会」だが、あれが今まで戦前戦後を通じ一貫して沖縄が味わわされ、今も続く屈辱の始まりだったといっているのである。

むろんこれは沖縄が抱えている様々な特殊性、地政学的な条件、琉球の歴史と文化、日本本土および米軍との関係等々の問題が一筋縄ではいかないことを知り尽くしているからこそ書けることである。端的に言えば、基地よ出て行け!差別をやめろ!といってすむことではない。威張りくさる調教師をぶっ殺してやるといっても、ぶっ殺したところで何か解決されるのかといわれれば、もう笑い飛ばすしかないではないか?その笑いの下にある沖縄の怒りと悲しみについて理解されなければ、それは続くというのである。
物語の冒頭で言うように「差別は無知蒙昧、偏見からくる」。これを取り除くにはいうまでもなく学習が必要である。人間にそれを理解する知識・理性が備わっていなければならない。これがいかに困難かは、実は表に現れない世界を見れば分かる。
それが戯曲の最後に、再び冒頭の台詞に戻り、そう簡単に幕は降りないだろう、なぜなら「歴史は繰り返す」からだ、という言葉になって表現されている。

この劇は、登場人物が三人と言うことになっている。それはそれで見てみたいと思うが、この津嘉山の一人語りでも十分に面白かった。目の前で髪振り乱して拳をあげ、体を揺すって読み上げるのだからラジオドラマとはいえないが、一種の講釈師と見てもいい。こういう芸はマクルーハンが言うところのホットメディアなのだ。迫ってくると言う点では申し分がなかった。

題名:    人類館
観劇日:    2008/08/01
劇場:    青年座劇場
主催:    青年座
期間:    2008年7月24日〜25日
作:    知念正真
演出:     菊地一浩 
美術:   
照明:    広瀬由幸
衣装:   
音楽・音響:   
出演者:    津嘉山正種




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2008年11月12日 (水)

劇評「道元の冒険」

Dogen井上ひさしと蜷川幸雄の相性は太文字にしたいくらい最悪だ。前回「藪原検校」を見たときも何の芸も見せない退屈きわまりない舞台(劇評)であった。それよりも前のシアターコクーン、井上作品第一弾「天保十二年のシェイクスピア」は見逃したが、WOWOWでやっていたのを見るともなしに見ていたからおおよそ、そうなることは予測できた。
端的にいって、蜷川は井上のユーモアをわかっていない。だから作りながら自身が楽しんでいないところが舞台にありありとでている。苦痛に歪んだ蜷川の顔が見えている。特にこれらの初期作品に多い、長々とした歌や延々と続く語呂合わせ、地口のような悪ふざけに、田楽猿楽シャレや替え歌言葉遊びの連続など本筋からの甚だしい逸脱はどう表現していいものか手に余るようである。
井上の芝居には、舞台の上にはじめから仕舞いまでそこはかとなくただようおかしみ、滑稽、くすくす笑い、それには見る方も一定以上の教養を必要とするのだが、そのような空気が多分に仕込まれている。浅草のストリップ小屋でコントを書いていた時代の名残、などというものではなく、その後の劇作に共通しているところを見れば、それが井上ひさしの天分なのなのだ。しかし、蜷川にとって、そういうとぼけた味わいをそこはかとなく表現するのはおそらく不得手なのだろう。いや、そもそもそんな寄席芸みたいなものに興味を持ちあわせていないのかもしれない。
ギリシャ劇やシェイクスピア作品で高い評価を受けているのだから、歴史のダイナミズムとかその中で運命に翻弄される人々の悲劇を格調高く描いていればいいものを、こんな畑違いの相性の悪いものに手を出せと言ったシアターコクーンのプロデューサーは大バカものと言わざるを得ない。(ノったこまつ座の台所事情もあるに違いないが、さっさと仕舞いにした方がいい。)

この作品は、1971年に書かれ、テアトルエコーによって熊倉一雄演出主演で上演された。井上ひさしの作品が初めて舞台にかかったのはこれより少し前、熊倉とやった『日本人のへそ』で、これがいまや伝説となっている大評判を呼んだ。このあとしばらく熊倉とのコンビは続くが、これこそ作家と演出家の幸福な出会いだったと言うべきだろう。この作品は約十年後に井上自身よって手直しされ「新・道元の冒険」として木村光一演出で上演されている。これもまた、相性抜群のコンビであった。上演当時の面白い話が残っているが、それは後回しにして物語の大筋をたどってみよう。

言うまでもなくこれは道元の評伝劇である。のはずであるが、時々現代の新興宗教の教祖らしい人物が精神科の医者とやりとりする場面が挿入され、この人物と道元が時空を超えて呼応しあうという仕掛けが施されている。
また、道元の思想を説いた詞の合間に直接関係のない言葉遊びやコロスのような、なにやら混沌としたものが多数入り、物語が混乱しているような印象を受けるのだが、それらをいったん括弧に入れてみると、浮かび上がってくるのは実に詳細を極める道元の半生記なのである。
それにしても、本筋が混乱するようなおびただしい数の言葉、手練手管を尽くして操る言葉の氾濫には圧倒される。歴代の天皇、神武から始まり道元が生まれた土御門帝の時代までの八十三代に渡る天皇の名を一言コメントをつけながら、読経するような調子で読み上げる「暦朝ソング」。戦前の教育を受けたものには、懐かしい思い出かもしれない。高校の日本史の教師が暗唱してくれたことがあったが、そのときは何の役にも立たないと苦笑していた。
また、現代の教祖らしい男が自分の略歴を問われて、突然ぶつぶつ言い出したのに耳を澄ませると思わず吹き出してしまった。こういったのである。
「川端康成の『雪国』の海音寺潮五郎の『天と地と』を隔てる北杜夫の『白きたおやかな峰』の麓に井上靖の『憂愁平野』が広がり、そこには井伏鱒二の『駅前旅館』があった。私の一生はこの旅館から始まるのです。わたしの母はこの地に井伏鱒二の『集金旅行』にきた・・・」著者の氏名はいらないといわれると「『 集金旅行』に来た『東京一淋しい男』(源氏鶏太)と土地の『質屋の女房』(安岡章太郎)との間に生まれた『おバカさん』(遠藤周作)で、そもそもが『痴人の愛』(谷崎潤一郎)の結晶ですから『ああ無情』(ビクトル=ユーゴー)にもやがて『居酒屋』(エミール=ゾラ)に奉公に出され『あらくれ」(徳田秋声)た生活を送っているうちに早くも『春のめざめ』(ツルゲーネフ)、とうとう『桜の森の満開の下』(坂口安吾)で『悪魔の弟子』(バーナード=ショウ)のような『三等重役』(源氏鶏太)にだまされて妊娠、わたしが生まれたのでした。」
このあとも、谷崎、大江、慎太郎、田山花袋、大佛次郎、二葉亭、石坂洋次郎、安岡章太郎、三島、五木寛之、吉行、曾野綾子、漱石、鴎外、今東光、宮沢賢治、清張、水上勉……と延々続いてさながら内外の近代文学タイトル総浚いの感がある。といっても、今時の若者には果たしてわかるかどうか? 
「ハイオク チクロ キノホルム スモッグ ソニー カドミウム …………」と思いつきのカタカナ語が脈絡なく念仏のように続くところや、ドイツ語ばかりを集めたような語呂合わせ、漢語の四字熟語をならべて道元留学時代の会話の困難さを表現するなど、ありとあらゆる言葉の技を駆使して、ポストモダン風にいえばエクリチュールかテクスト、いや芝居だからパロールか?あるいはシニフィアンとシニフィエの目眩く饗宴、万華鏡の発する音もかくやと戯れ遊ぶ言葉の遁走曲を作り出す。
もう一つついでに。
鎌倉新仏教の親鸞、日蓮と道元がそれぞれの出発点において同じ比叡山で天台教学を学んだことに因んで、一堂に会する場面がある。この三人は世代がまるで違う(親鸞ー1173〜1263、道元ー1200〜1253、日蓮ー1222〜1282,)から実際にはあり得ないことだと思うが(道元、親鸞は縁戚にあったらしいけど)、仏教改革の旗手といっても三者三様の主張があることを示しておきたかったに違いない。
日蓮は自分が国家権力に抵抗し、親鸞があえて戒律に抵抗したのに、君があくまで既成の権力に対し曖昧な態度でいるのはけしからんというと国家は権力にあらず大衆の集合と反論、むしろ親鸞の妻帯は人間という迷妄の再生産に過ぎない愚行と息子の善鸞の評判の悪さを引いて責める。掴みかかろうとすると、互いに制して我らは叡山天台大学の同窓生ではないかと肩を組み歌い始める歌がなんと、
「都の東北 比叡の山に 聳ゆる甍は我らが母校 我らが日頃の抱負を知るや 顕密両道 摩訶止観 現世を忘れぬ 本覚思想 輝く我らが行手を見よや 天台 天台 天台 天台 天台 天台 天台」
次に争うと、再び制して
「白雲なびく比叡山 頭剃りたる若人が 撞くや時代の暁(あけ)の鐘 中国文化を導きて 遂げし偉人のあとを担う 『天台』その名ぞ我らが母校 『天台』その名ぞ我らが母校」
再び肩を組んで、
「若き血に燃ゆるもの 光輝充てる我ら 涅槃を目指す我らが精進 つねにめざまし 見よ精鋭の集うところ 烈日の意気高らかに 天台 天台 法の王者 天台」
親鸞が放歌高吟のあと「いやー、本日はいい日だった」といって帰ろうとすると、道元が、もうお帰りですか?それは弱りましたという。二人がなぜという顔をすると、
「立教と法政、それに東大がまだでございます。」と落とす。

万事この調子で、全編の半分が歌や詩、言葉遊びに落とし話、替え歌などで埋め尽くされている。難解な漢語が連なる教義の詞も冗談なのか本気なのか、この言葉の洪水に飲み込まれてありがたみも半減である。この調子では、そもそもなぜこの時期に道元を取り上げたのかが分からなくなる。71年といえば、学生運動のピークは過ぎたが余韻はまだ残っていた頃だ。革命騒ぎに対するアンチテ−ゼならもう少しまじめにやっても良さそうなものだが、劇自体が一種のケーオス、混沌の極みである。「新劇芝居の浮き沈み 不条理アングラもう古く 今の流行(はやり)は赤テント そして旅ゆく黒テント」と行方定めぬ芝居の世界も無政府状態らしい。それもこれもどうやら、新興宗教の教祖という男(阿部寛)の存在が鍵になっているようである。

道元三十四歳の時に、山城の国深草に本格的な専修禅寺として興聖宝林寺を建立したが、劇はそれから七年たった春のある日から始まる。近頃では只管打坐、すなわちただ座禅だけが修行であり、悟りを開く道と説く道元の教えが評判を呼び、都でも注目されるようになっていた。世俗の権威や欲とは一線を画す清廉な思想は好ましいものと思われていたが、まさに朝廷幕府の権力を背景に、ほしいままに振る舞う叡山にとってはこしゃくで憎らしい目の上のたんこぶ、陰に陽に迫害を受けるようになっている。
この日は、開山七周年記念を祝う日。近頃夢間に変な男が現れるので心悩ましく寝苦しい思いをしている道元様を慰めようと皆で余興を考えた。「道元禅師半生記」。演ずるのはいずれも興聖寺の禅僧、経理担当義介(北村有起哉)=後永平寺三祖、典座義演(大石継太)=後永平寺第四祖、後鳥羽上皇第三皇子で道元の侍者義尹(高橋洋)、他五名(栗山千明 横山めぐみ 片岡サチ 池谷のぶえ 神保共子)。それに道元の高弟懐奘(木場勝己)=後永平寺二祖が加わる。
これらの登場人物はシナリオの進行に従って一人何役もこなす早変わりで、獅子奮迅の働きを見せることになる。
劇中劇を要約すると、以下の通りである。
道元は、土御門帝の右大臣久我通親と名門、藤原基房の三女伊子の間に生まれた。母親は木曾義仲が都になだれ込んで来たときに政略結婚させられたが、義仲敗退後久我通親の側室になった人である。三歳の時に父親を、八歳の時に母親をなくした。十三歳で叡山にのぼり、翌年天台座主公円の弟子になる。以来数年、顕蜜両学を学び尽くし、名門の出であるからゆくゆくは天台の僧として出世するだろうと思われていたが、それだけで彼の求道精神は満たされなかった。十七歳で叡山をあとにし、臨済禅に触れるがそれにも飽きたらず、二十三歳の折に栄西禅師と禅問答の末、宋に渡って新しい仏教を模索することにした。
この間に劇中劇は、叡山の僧兵が脅しに現れたり、源実朝が未亡人正覚尼が訪ねてきたり、例の変な男が現れたり何度か中断されるが、無事第二幕に続くことになる。宋に渡る船の一幕終わりの場面は、突然舞台いっぱいに海色の布が広がり、小型の渡宋船が波に翻弄される様が心細くここだけなぜか圧巻だった。
だいたい中越司の舞台装置は、このところバカの一つ覚えみたいに舞台いっぱいを屏風で囲い、平場で芝居をさせるという芸のないものであった。蜷川の注文かもしれないが、凡庸で平板な演出をますますつまらなく見せる効果はあっても、戯曲の中にある猿楽や田楽、寄席芸や際物芝居など多様で多彩な言葉の世界を表現するには不都合であった。もっと色彩豊かで、あっと驚く仕掛けとともに語られねばおもしろくない芝居だとは思わなかったのだろうか。ついでにいえば、伊藤ヨタロウの音楽はなかなかよかったが、この装置といい演出といいどうも全体とかみ合っていなくて、惜しいことをした。
それはともかく二幕目である。
二幕目は宋にたどり着いたが、上陸許可が下りず慶元府(今の寧波)の港に足止めを食らっているところから始まる。
「干し椎茸はないか」と訪ねてきた老典座がいると聞いて喜び勇んで会うと、南宋禅林五山の一つ広利寺から来たよし。これ幸いと話を聞こうとして、なぜその年まで料理番などやっているのか、不満はないのかと問えば、「お若いの、未だ弁道とは、修行とは何か分かっていないようだ。座禅は随所、随所が座禅」と答える。生きるも死ぬるも何から何までこれ弁道というのである。確か「正法眼蔵随聞記」にある有名な逸話である。道元はこれを聞いて感服し、弟子にしてくれと頼むが取り合ってくれない。自分よりも太白山天童景徳寺の天童如浄がよかろうと言い置いて去る。
早速、道元がそこを訪ねると如浄はこの遠来の若者の才能を見抜いて受け入れ、例外的に自らの傍らに置いて修行をさせる。道元はここで五年を過ごし、如浄について只管打坐を学び身心脱落を会得した。ついに如浄は印可を渡すが、実はこの青年を帰すのは惜しいと思ったらしい。(劇では出てこないが=司馬遼太郎説)しかし、如浄の曹洞宗を広く布教するためにも帰国せざるを得ないという道元の言葉に同意し快くこれを送り出す。
帰国した道元は、洛中建仁寺で座禅三昧、著述三昧の毎日を送っていたが、日に日にその名は高くなり、叡山のねたみを買うようになった。叡山衆徒会議が「道元を洛中より追放」を決定、ひとまず山城の国深草の廃寺に移る。それからまもなくここ観音導利興聖宝林寺を建立するに至ったのである。

一方、たびたび夢の中に登場してきた新興宗教の教祖らしい男は、精神鑑定医とのやりとによると、公害呪殺団の一員で公害をまき散らす企業の経営者に怒り、その細君と交わって血を浄化しようとレイプに及んでいたものらしい。男は、自分と女が関係し、その体で男と接することによりさらに浄化はつぎつぎに広がりを見せるはずと信じているようであった。
この二人が最後に出会ってお互いに消えてしまえとのの知り合うことになるのだが、どちらが夢を見ているのか頬をつねって「夢は短い狂気、狂気は長い夢」を歌い出す。その文句は
「この世に何一つ 夢でないものがあるか この世にどれ一つ 狂っていないものがあるか」というものであった。
そこへ突然男が現れ大声で「道元さんたち、朝ですよ!……ははあ、昨夜もみんなで同じ夢を見たんだね。みんな一緒に、毎晩同じ夢を見ているんだから全く仲がいいってのか……」
なんと、そこは精神病院だったのだ。患者が毎夜毎夜道元ごっこをしているというのを見せられていたのであった。(木戸銭返せ!といいたくなった人もいたのではないか?)

まったく何という仕掛けだと思うが、道元の思想という観点からいえば早口の台詞で言いっぱなしになってしまうのは惜しいと思うほど、その真髄を広汎に捉えているのに驚く。ただし、あまり共感しているとは思えないところは理屈が勝っているのかという気もするが、克明に調べ上げているのには感服した。
もう四十年前のことになるが、日本倫理思想史演習という必修科目で担当の中村(下の名前がどうしても思い出せない)教授が道元を取り上げたいが皆さんいかが?というので、僕は一も二もなく賛成した。受講者は確か四五人だったからすぐに決まった。「正法眼蔵」第三巻「仏性」に道元の思想の核心部分があると思うからここを読もうというものであった。授業は毎回その頃まだ残っていた旧制弘前高等学校の木造校舎の二階にある教授の居室のソファに座って行われた。何行かづつ読み進めては、意見を言い合い教授がまとめるというものだった。後期第四時限の授業だから薄暮からはじまり終わる頃には真っ暗になった。いつも明かりのない薄暗い板張りの廊下を寒さに震えながらそろそろとたどって帰った。
 もうすっかり忘れてしまったが、冒頭に掲げられた「一切衆生、悉有仏性。如来常住、無有変易」の意味、存在するものすべてに仏性はあるとは具体的にどういうことかなど議論したのを覚えている。あるいはまた、身現円月相という言葉が何度も出てきて理解できそうでできないもどかしさを感じた記憶がある。以来、何度か読もうと思っていたが果たせなかった。今となっては懐かしい思い出である。

ところで、はじめに初演当時のおもしろい話、と書いたが、それはあとから手を入れた「新・道元の冒険」(木村光一演出)上演パンフレットにある。扇田昭彦の文章から孫引きする。
「この戯曲を脱稿した夜、演出家兼主演俳優の熊倉一雄(テアトル・エコー)さんと台本完成祝いの酒を飲んだ。はじめのうちにこにこしていた熊倉さんが、突如原稿を掴んで宙に撒き、『こんなもの、上演できるか』と叫んだのが、今でもはっきりと記憶にある。私も熊倉さんにならって『そうだ、そうだ』と原稿をまき散らした。四百字詰め原稿用紙で三百六十枚。上演時間は六、七時間。少なくとも三分の一はカットしなければならない。それはきっと面倒な作業になるだろう。そういったことが熊倉さんと私を悪酔いさせたのだろうと思われる。」
こんなことがあったとは大笑いである。
やはりこのパンフレットで、新興宗教の教祖を登場させたことについて書いている。
「道元と現代の狂者が互いに夢を見合うという構造は、これは古びていない。道元は現代の狂者のことを夢に見、現代の狂者は道元のことを夢に見る。どちらも自分のことを夢に見てくれる人間なしには存在し得ないというのは、私にしては上出来の趣向である。稚拙ではあるが、
1.ひょっとしたら狂人こそ真の予言者的思想家ではないか。
2.宗教と科学の総合は二十世紀末の最大の課題ではないか。
という二つの主題の展開も見られて、まあ悪くない。」

見ている間中この対比が、あまりにも無理があると思っていたが、これではやはり井上ひさしは、道元をあの時代の狂者と位置づけていたことになる。道元が狂者であったならこの並列は鮮やかに成立するところであったが、そう見ているものはほとんどいないだろう。道元には、狂者として責められるべき何ものもなかったではないか。道元は、この芝居に書かれているとおりのことを考え、考え抜いて只管打坐という境地に至ったのであり、その過程は誰もが得心のいくものであった。
この芝居が、その一点において失敗していると言っても過言ではない。
また、二つの主題にしても、1.については僕らはすでに麻原彰晃を知っている。うかつにそういうことを肯定するとポアされても文句は言えないということになるかもしれない。2.についても、たとえばイスラム原理主義とかキリスト教原理主義とかいえば、科学と総合するはるか以前にやるべきことが多いという気がして、井上の言い分にはとても大まかすぎて賛成するわけにいかない。

いろいろ不満はあるが、せめて、もっとおもしろく見せてくれたらよかったと思うばかりである。
役者については、皆がんばったが演出家がぶちこわしたから特にいうこともなし。

題名: 道元の冒険
観劇日: 2008/07/11
劇場: シアターコクーン
主催: シアターコクーン
期間: 2008年7月7日(月)~28日(月)
作: 井上ひさし
演出: 蜷川幸雄
美術: 中越司
照明: 山口暁
衣装: 小峰リリー
音楽・音響: 伊藤ヨタロウ 井上正弘
出演者: 阿部寛 栗山千明 北村有起哉 横山めぐみ 高橋洋 大石継太 片岡サチ
     池谷のぶえ 神保共子木場勝己


 


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