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2007年5月 2日 (水)

劇評「地面の底が抜けたんです」

Zimennno_2ハンセン病の元患者、藤本としの自伝を女優の結純子が独り芝居に仕上げたもの。
藤本としは明治34年(1901)に東京・芝琴平町に生まれた。18才、婚約が整った矢先に発病、強制的に隔離される。
日本女子大成瀬記念講堂は建築されてから百年有余が過ぎている。演劇を上演するようには作られていないから、狭くて照明の設備もない。創立者の成瀬仁蔵の書額もそのままに、袖から藤本とし(結純子)が静かに現れる。
赤い振り袖におかっぱ頭で若々しい。江戸のたたずまいが残る東京下町の裕福な商家に生まれたとしは、なに不自由ない幼少期を送っている。母親に手を引かれていった歌舞伎、近所の子供らと遊んだ路地裏や表通りのにぎわい、親兄弟の思い出を語るとしは明るく屈託が無い。
娘盛りの十八歳で縁談が整い、さあこれからという時にハンセン病と分かった。突然の不治の病の宣告に、奈落の底に突き落とされた。文字通り立っていた地面の底が抜けてしまったのである。死のうとしたが死にきれなかった。
この当時、ハンセン病は伝染性が強い恐ろしい病気と信じられ、治療方法もなかった事から完全に社会から隔離され、療養所の中で生活させられることになった。
としが療養所に隔離された頃は施設が十分に整っていなかったために、一部屋に何人も患者が押し込められ、ひしめき合って寝なければならなかった。中には夫婦も何組かいて、としも隣り合って横になることがあった。
まもなく両親とも死に、社会との関係は完全に絶たれてしまった。
ハンセン病は、結核菌によく似た、抗酸菌の一種である「癩菌」が末梢神経細胞に寄生して発症する感染症である。伝染性が強いと信じられていたが、実際には幼児期に頻繁かつ強い接触が長期にわたって続くといったことでもない限り、容易に感染はしない。本来「癩菌」に接触しても95%の人は免疫が存在して感染はしないものであるが、何らかの原因で、免疫がなかったり免疫力が低下した場合に発症する。突発的に症状が出る場合は、免疫がなかった場合で体や手足に褐色の結節(癩腫)ができて、眉毛が抜けて髪の毛も少なくなり、結節が崩れて特異な顔貌になる。
一般には潜伏期間が長く、皮膚からは菌がほとんど検出されないために、皮膚が斑に赤くなり、感覚がマヒするなど神経障害の臨床症状により診断される。免疫反応と考えられる神経の障害、知覚障害、運動障害、自律神経障害が末梢神経の肥厚を伴って出現し、ゆっくりと進行する。
肺結核などは直っても外貌に変化はないが、ハンセン病は病気自体が治癒しても、外見が変り、神経障害が後遺症として残って元患者の生活に影響を及ぼしてきた。
ちなみに現在国立、民間の療養所に合わせて三千人あまりが収容されているが、そのほとんどは治癒した元患者で平均年齢七十才を越える老人である。我が国においては在日外国人をのぞいて新たな患者はでていない。
戦後まもなく特効薬「プロミン」が開発され、病理研究も進んで不治の病ではなくなったが、にも関わらず、厚生省は強制収容所に匹敵する「らい予防法」を撤廃しようとせず、1996年になるまでこれを放置、激しい差別にあってきた元患者らの訴えによってようやく約百年ぶりに悪法を廃する事が出来た。
藤本としは、療養所の生活に慣れていったが、その間に病状は進行していた。
第二幕では、おかっぱ頭が、白髪混じりの短い髪型に代わり、時代も戦後になっている。
「プロミン」は間に合わなかった。
その間にとしは二十才年上の男と結婚した。視力が衰えて助けるものもいなかったから不憫に思って一緒になった。感覚のマヒした手では入れ歯を洗う事も出来ない。としは自分の口を使ってそれを洗った。一生懸命面倒を見て最期を看取ったとさも満足げにいう姿に人間とはなんとたくましいものかと感じた。
四十七歳の時にとしは視力を失った。
「あのね。目が見えなくなってしばらくは、何もかもいやになってしまった。しかしね。じっと力を入れて目の奥を見ようとすると、見えてくるものがあるのに気付いた・・・」
その時すでに、手や足、体中の皮膚という皮膚から感覚がなくなっていた。
「あのね。感覚がなくなると熱さ寒さが分からなくなっていいではないかと思うでしょ。でもね。寒い時は皮膚の内側の辺りが痛むのよ。あちこちさすように身体の底の方から痛むのよ。夏はね、汗が出ないから身体に熱がこもって痛痒くてじっとしていられない。あんなに気持ちの悪いものはないのよ。」
僅かに舌の先だけに感覚が残っていた。
目が見えなくなっても本だけは読み続けたいと思う。本はとしの人生になくてはならないものであった。
点字を習った。その舌の先で。
紙は唾液ですぐにぼろぼろになった。しかし、一ヶ月もしたら要領がわかり、乾いた舌の先で点字を追う事が出来るようになった。
晩年平穏な暮らしの中で、ふと兄弟のことが思い出され連絡を取って見たら、長男二男ともすでに亡く、次兄の息子という人から手紙が届いた。何年か後に会うことになる。
過酷な運命を常に前向きに明るく生きた不屈の精神に、深い感動を覚えた。この人の生き方には、人間とは何か、人生とは何かということを考えさせずにはおかない強いメッセージがある。
昭和62年(1987年)岡山県にある国立療養所邑久光明園において、86年の人生に幕を閉じた。
第二幕のはじめに、座布団をとり出して舞台(といっても演壇の僅かな空間)の真ん中にとしが坐った。黒眼鏡をとったりかけたりしている。
「あのね・・・」ととしが少し首を振って観客に語りかけると、僕はそこにいるのが本物のとしではないかという錯覚に陥った。どうも結純子にとしが乗り移ったように見えたらしい。
いやいや、としはもうすでに死んでいるから、そのはずはない。
話しながら、振り上げる両の手に指がない。
僕は、いよいよ驚いて、あの女優は藤本としと同じ療養所からやってきた元患者に違いないと思った。どう見ても自分の体験を話しているようにしかみえなかった。
おそるべし結純子。
僕はこの女優を知らなかった。
早稲田を出て「劇団俳優小劇場」(小沢昭一、小山田宗徳、小林昭二、露口茂、山口崇山谷初男らが所属)「劇団三十人会」を経て、74年に松橋勇藏と劇団を結成した。
経歴によると
「77年に『劇団ほかい人群』とし、ワゴン車に鍋、釜、味噌、醤油、寝袋など、一切合切を積み込み、大人6人と娘(1〜4歳)ひとりを連れて定住することなく日本全国を公演して回る。その間は役者よりも構成・演出家として、愚安亭遊佐(松橋勇蔵)のひとり芝居『人生一発勝負』(文化庁芸術祭優秀賞受賞)、『百年語り』などを創るほうに力を注いだ。『劇団ほかい人群』解散後、数年間のブランクを経て、自らの身体表現を通して人とつながりたいと役者に復帰、ひとり芝居をはじめる。石牟礼道子の『道行きのえにし』、高村光太郎の『智恵子』、宮沢賢治の『祭りの晩』、岡本かの子の『太郎への手紙』などを脚色・構成した作品を各地で公演。また毎年、地域の子供と母親が一緒に参加する演劇ワークショップを指導、全く新しいスタイルの舞台を公演し、好評を得ている。ひとり芝居「地面の底がぬけたんです」は2001年10月大阪・京都・鳥取で初演。以来各地で熱い反響を呼び、マスコミでも大きく取り上げられている。」
すごい役者がいたものだ。
一幕目の娘時代から次第に藤本としが乗り移り、二幕目で舞台に座り込んでからは講壇で演じていることなど気にならない、ほとんどなり切っているように錯覚するほどの圧倒的な存在感である。
地面の底が抜けて、その底からはい出てくるような生命力が充溢する、あれは久し振りに見た紛れもない肉体派の女優であった。

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