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2007年3月 8日 (木)

必読書150の時代錯誤

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必読書150 著者:柄谷行人 浅田彰 岡崎乾ニ郎 奥泉光 島田雅彦 すが秀美 渡部直己 

 

帯に「これを読まなければサルである!」とある。この本を本屋で見て、バカな連中がいるものだと思っていたらWeb上では話題になっていると分かった。必読と上げられているのは、プラトン、アリストテレスからマルクス、他に日本の思想家など人文科学50冊、海外文学と日本文学が50冊、加えて参考テクスト70冊が上げられている。(後ろにリストをつけておいた)
昔「世界の名著」という全集があってずいぶん売れた。小振りだが厚みがあって箱入り、立派なものだった。中央公論社の懐は大いに潤ったが、日本国民の教養レベルが上がったとはついぞ聞いた事がない。それもそのはず、あんな小難しいものを五十何巻も読めるはずがない。読んだところで中身が分かるものでもないし、分かったからそれがどうしたというものだ。売れたのは応接間の本棚を飾るのにちょうどよかったからだ。客に見せてこけおどしをやろうという悪しき教養主義がはびこった時代である。高度成長とは一面そういう事でもあった。
集めたものの大半は、岩波文庫に入っている。ほとんど古典となっているもので、読まないよりは読んだほうがいいに決まっているが、この連中の選び方の安易な事が露骨にでている。つまり、岩波教養主義といえばいいのか、「世界の名著」主義といえばいいのか、頭の構造は岩波茂雄あるいは文明開化の時代とたいした違いはないように思える。つまりこれは古典的なエリート養成の方法論に何の疑いも持たず従っただけの事である。昔の旧制高等学校の生徒なら喜んで丸暗記でもしただろう。後で自慢出来るからだ。しかし、自慢の種を教える事ならサルでもできる。

 

今ごろこんなことをやるとは、現在がどのような時代であるかの認識が、全くない事の証左である。さすが、1991年の湾岸戦争が始まろうとしているときに、押っ取り刀でやってきて「戦争反対!」と叫んだ連中だけの事はある。何故反対かといえば、よく聞こえない声で、平和憲法があるからだとのたまったのである。古今東西の古典で頭が充満している日本の知識人のレベルとはこんなものだ。まあ、古典を勉強するよりは中東の歴史を勉強したほうがいいのではないか、とその時はあきれてしまったが・・・。
この連中は近畿大学の教師らしいが、学生相手に「これを読まなければサルだ」などと脅している。こういう浮世離れした連中に「サル」だと言われても、あまり気にしないほうがいいと学生諸君にはいっておきたい。しかし、聞き捨てならないのは、自分の教え子を取りあえずサルだと思っているらしいことだ。サルだと思われる節があるのかないのか、とりあえず、かわいそうに、教師にサルだと思われているとは。大学生の年ごろは、妙にませた若者もいるにはいるが、たかだか二十年かそこいらしか生きていないのだから、教師の年代から見たら無教養で、経験不足で使い物にならないと見えるのは当たり前である。そこを何とか引き上げるのが教師の責務だろう。

 

そこで、教師とはどんなことをするものかという見本みたいな話があるから、なるべく短く紹介しよう。呉智英の経験ばなしで、感動ものである。
呉智英先生は、某大学で三日間の集中講義を頼まれた。三日で一年分の単位を出そうというのであるから朝から夕方までぶっ続けである。しかも労力の割に報酬が少ない。悪条件である。しかし「マンガ論」だから義務感でやむなく引き受けた。もう一つ悪い条件があった。「大きな声ではいえないが、(ここから小文字で)そこの大学は偏差値が40台なのである。(小文字終わり)差別は正しい、学歴差別は特に正しいと公言する私としてはそんな大学で教えたくない。」しかし、引き受けた以上はやらざるを得ない。やる以上は水準を落としたくない。困った困った。とまあ、やる事になって教室に入ると悪い予感が的中した。四十人ほどの学生のうち、頭が黒いものは男女とも半分以下。スキンヘッドも二三見える。耳にピアスが男女とも半分で、ほぼ全員が机の上にウーロン茶。
えらい事になったと思いながら、ともかくはじめた。出来るだけメリハリを付けて。細かい論証は省いて面白いところだけ強調して。学生たちは無反応。彼らの常識を覆すような話をする。他の大学だったら学生がはっと驚いている様子が分かるのだが、ここでは無表情。しきりに面白い話をするがやはり無表情。居眠りするものがいないのがせめてもの救いだ。こうして一日目が終わった。
二日目は開き直って、今日のはもっと難しいぞと宣告した。マンガ論の講義だからといって諸君はチョロイと思ったか知れんが、漫画を読む事とそれを考察する事は同じではない。学生たちはえーっと声を上げた。始めて反応らしい反応。「フランス革命と最高存在の祭典だの、千年王国思想としての民衆運動だの、形相因と目的因だの、成島柳北のルサンチマンだの、そんな話ばかりなのだ。」(こういう講義なら僕も聴きたいね。)つまり、マンガ論といってもマンガをかみ砕いて講壇から話すのではなく、「そのマンガに何が読み取れるか、マンガを読み解くためには何を知っておかなければならないか、それを講義するのである。」
三日目、もっと難しい話になるといったら、学生はまたえーっと声を上げる。「徂徠学の出現が宣長の国学に強い影響を与え、それが近代的文芸批評の下準備をした、という事が分からないと、エロマンガを取り締まる事の是非も論じられないのだよ・・・」(いあヤーこれは難しそうだ。)という事をとうとうと論じたのである。
そして昼休み、出席カードを回収していて不思議な事に気がついた。一日目、受講者四十三人。二日目、受講者四十三人。三日目、受講者四十三人。三日間学生は一人も脱落していなかった。最終時間は、レポートの作成と感想を書く事に費やした。学生のほぼ全員がむつかしかったけれど面白かったと書いてきた。中学や高校で習った事と正反対の事を三日間聞かされたので驚いたけど、非常に有意義だったと書いて来た学生も多かった。中にこの講義を受けれて○○大学にきてよかったと書いたのもあった。バカ「受けれて」じゃなく「受けられて」だろうと悪態をつきながら呉智英先生は深く感動していた。

 

そして激しい義憤が湧き上がるのを覚えた。『彼らが三日間笑う事も表情を変える事もなかったのは、中学高校の六年間、彼らは学校の授業で、知的な興奮を覚えたり、笑ったりする習慣がなかったからなのだ。偏差値40台というのはそうした青春時代を送るという事なのである。彼らは始めて「知る」と言うことが面白い事なのだと知ったのだ。私は、しかし、この義憤をどこのだれにぶつけてよいものか、今に至るまでよく分からないのである。」(「四十台の青春」2001年12月「犬儒派だもの」に所収)
この学生たちの何人かは、フランス革命に興味を持ったかもしれない。そのうちの何人かは関連書籍を買いに走ったかもしれない。あるものは成島柳北について調べる気になったかもしれない。

 

Image_20200519044302 読書とはそのようにして始まるものだ。「知る」と言うことが面白い事だと教える事が出来れば、いつかは古典にたどり着く事がありうるだろう。「サル」に対して教師が教えるべきはただ一つそのことだけである。
もっといいたい事はあるが、長くなったのでこの辺でやめる。(あっ、○○大学は近畿大学ではありませんよ。どっかの山の中にある大学らしい。)
一言追加。
この文明開化時代の西洋かぶれどもにリストに対する文句を言って置こう。
ドゥルーズ&ガタリ『アンチ・オイディプス』を必読書に入れるのは間違い。「千のプラトー」もそうだが、こんなに長々とおしゃべりをしているからフランスは二度も戦争に負けたのです。
木田元「反哲学史」を入れないのは日本の哲学の現在を理解していない証拠。
むかついてきたので、ここでやめるわ!
(むかついて、やめたが、後日、「反哲学史」について説明した文章があるので、引き続き読んでいただきたいと思う。こちら

 

呉智英の本から引用したブログはここにもあります。

 

『必読書150』で取り上げられた本

 

人文社会科学

 

プラトン『饗宴』岩波文庫

 

アリストテレス『詩学』岩波文庫

 

アウグスティヌス『告白』岩波文庫

 

レオナルド・ダ・ヴィンチ『レオナルド・ダ・ヴィンチの手記』岩波文庫

 

マキァベッリ『君主論』中公文庫BIBLO, 岩波文庫

 

モア『ユートピア』岩波文庫

 

デカルト『方法序説』岩波文庫

 

ホッブズ『リヴァイアサン』岩波文庫

 

パスカル『パンセ』中公文庫

 

スピノザ『エチカ』岩波文庫

 

ルソー『社会契約論』岩波文庫

 

カント『純粋理性批判』岩波文庫

 

ヘーゲル『精神現象学』平凡社ライブラリー, 作品社

 

キルケゴール『死に至る病』岩波文庫

 

マルクス『資本論』岩波文庫

 

ニーチェ『道徳の系譜』岩波文庫

 

ウェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』岩波文庫

 

ソシュール『一般言語学講義』岩波書店

 

ヴァレリー『精神の危機』

 

フロイト『快感原則の彼岸』ちくま文庫

 

シュミット『政治神学』未来社

 

ブルトン『シュルレアリスム宣言』岩波文庫

 

ハイデッガー『存在と時間』ちくま文庫, 岩波文庫, 中公クラシックス

 

ガンジー『ガンジー自伝』中公文庫

 

ベンヤミン『複製技術時代における芸術作品』複製技術時代の芸術, 晶文社クラシックス

 

ポランニー『大転換 市場社会の形成と崩壊』東洋経済新報社

 

アドルノ&ホルクハイマー『啓蒙の弁証法』岩波書店

 

アレント『全体主義の起源』みすず書房

 

ウィトゲンシュタイン『哲学探求』大修館書店

 

レヴィ=ストロース『野生の思考』みすず書房

 

マクルーハン『グーテンベルグの銀河系』みすず書房

 

フーコー『言葉と物』新潮社

 

デリダ『グラマトロジーいについて』

 

ドゥルーズ&ガタリ『アンチ・オイディプス』河出書房新社

 

ラカン『精神分析の四つの基本概念』岩波書店

 

ウォーラーステイン『近代世界システム』岩波書店

 

ケージ『ジョン・ケージ』青土社

 

サイード『オリエンタリズム』平凡社

 

ベイトソン『精神と自然』新思策社

 

アンダーソン『想像の共同体』NTT出版

 

本居宣長『玉勝間』岩波文庫

 

上田秋成『胆大小心録』岩波文庫

 

内村鑑三『余は如何にして基督信徒となりし乎』岩波文庫

 

岡倉天心『東洋の理想』講談社学術文庫

 

西田幾多郎『西田幾多郎哲学論集Ⅰ・Ⅱ・Ⅲ』岩波文庫

 

九鬼周造『「いき」の構造』岩波文庫

 

和辻哲郎『風土』岩波文庫

 

柳田國男『木綿以前の事』岩波文庫

 

時枝誠記『国語学原論』

 

宇野弘蔵『経済学方法論』

 

海外文学

 

ホメロス『オデュッセイア』岩波文庫

 

旧約聖書『創世記』岩波文庫

 

ソポクレス『オイディプス王』新潮文庫、岩波文庫

 

『唐詩選』岩波文庫

 

ハイヤーム『ルバイヤート』岩波文庫

 

ダンテ『神曲』岩波文庫

 

ラブレー『ガルガンテュアとパンタグリュエルの物語』岩波文庫

 

シェイクスピア『ハムレット』角川文庫、新潮文庫、岩波文庫、ちくま文庫

 

セルバンテス『ドン・キホーテ』岩波文庫

 

スウィフト『ガリヴァー旅行記』岩波文庫

 

スターン『トリストラム・シャンディ』岩波文庫

 

サド『悪徳の栄え』河出文庫

 

ゲーテ『ファウスト』新潮文庫、岩波文庫

 

スタンダール『パルムの僧院』

 

ゴーゴル『外套』

 

ポー『盗まれた手紙』

 

エミリー・ブロンテ『嵐が丘』

 

メルヴィル『白鯨』

 

フローベール『ボヴァリー夫人』

 

キャロル『不思議の国のアリス』

 

ドストエフスキー『悪霊』

 

チェーホフ『桜の園』

 

チェスタトン『ブラウン神父の童心』

 

プルースト『失われた時を求めて』

 

カフカ『審判』

 

魯迅『阿Q正伝』

 

ジョイス『ユリシーズ』

 

トーマス・マン『魔の山』

 

ザミャーミン『われら』

 

ムージル『特性のない男』

 

セリーヌ『夜の果ての旅』

 

フォークナー『アブサロム、アブサロム!』

 

ゴンブローヴィッチ『フェルディドゥルケ』

 

サルトル『嘔吐』

 

ジュネ『泥棒日記』

 

ベケット『ゴドーを待ちながら』

 

ロブ=グリエ『嫉妬』

 

デュラス『モデラート・カンタービレ』

 

レム『ソラリスの陽のもとに』

 

ガルシア=マルケス『百年の孤独』

 

ラシュディ『真夜中の子どもたち』

 

ブレイク『ブレイク詩集』

 

ベルダーリン『ヘルダーリン詩集』

 

ボードレール『悪の華』

 

ランボー『ランボー詩集』

 

エリオット『荒地』

 

マヤコフスキー『マヤコフスキー詩集』

 

ツェラン『ツェラン詩集』

 

バフチン『ドストエフスキーの詩学』

 

ブランショ『文学空間』

 

日本文学

 

二葉亭四迷『浮雲』

 

森鴎外『舞姫』

 

樋口一葉『にごりえ』

 

泉鏡花『高野聖』

 

国木田独歩『武蔵野』

 

夏目漱石『我輩は猫である』

 

島崎藤村『破戒』

 

田山花袋『蒲団』

 

徳田秋声『あらくれ』

 

有島武郎『或る女』

 

志賀直哉『小僧の神様』

 

内田百『冥途・旅順入城式』

 

宮澤賢治『銀河鉄道の夜』

 

江戸川乱歩『押絵と旅する男』

 

横山利一『機械』

 

谷崎潤一郎『春琴抄』

 

夢野久作『ドグラ・マグラ』

 

中野重治『村の家』

 

川端康成『雪国』

 

折口信夫『死者の書』

 

太宰治『斜陽』

 

大岡昇平『俘虜記』

 

埴谷雄高『死霊』

 

三島由紀夫『仮面の告白』

 

武田泰淳『ひかりごけ』

 

深沢七郎『楢山節考』

 

安部公房『砂の女』

 

野坂昭如『エロ事師たち』

 

島尾敏雄『死の棘』

 

大西巨人『神聖喜劇』

 

大江健三郎『万延元年のフットボール』

 

古井由吉『円陣を組む女たち』

 

後藤明生『挟み撃ち』

 

円地文子『食卓のない家』

 

中上健次『枯木灘』

 

斎藤茂吉『赤光』

 

萩原朔太郎『月に吠える』

 

田村隆一『田村隆一詩集』

 

吉岡実『吉岡実詩集』

 

坪内逍遥『小説神髄』

 

北村透谷『人生に相渉るとは何の謂ぞ』

 

福沢諭吉『福翁自伝』

 

正岡子規『歌よみに与ふる書』

 

石川啄木『時代閉塞の現状』

 

小林秀雄『様々なる意匠』

 

保田與重郎『日本の橋』

 

坂口安吾『堕落論』

 

花田清輝『復興期の精神』

 

吉本隆明『転向論』

 

江藤淳『成熟と喪失』

 

参考テクスト70

 

人文社会科学

 

ルイ・アルチュセール『マルクスのために』平凡社ライブラリー

 

レイモンド・ウィリアムズ『キイワード辞典』晶文社

 

ロジェ・カイヨワ『聖なるものの社会学』ちくま学芸文庫

 

アントニオ・グラムシ『新編-現代の君主』青木書店

 

スラヴォイ・ジジェク『イデオロギーの崇高な対象』河出書房新社

 

ディドロ&ダランベール編『百科全書』岩波文庫

 

フランツ・ファノン『黒い皮膚・白い仮面』みすず書房

 

ヤーコブ・ブルクハルト『ブルクハルト文化史講演集』筑摩書房

 

フェルナン・ブローデル『歴史入門』太田出版

 

ダニエル・ベル『資本主義の文化的矛盾』講談社学術文庫

 

ダグラス・R・ホフスタッター『ゲーデル、エッシャー、バッハ-あるいは不思議の環』白揚社

 

メルロ=ポンティ『メルロ=ポンティ・コレクション』ちくま学芸文庫

 

ユング『変容の象徴-精神分裂病の前駆症状』ちくま学芸文庫

 

ジャン=フランソワ・リオタール『ポスト・モダンの条件-知・社会・言語ゲーム』白馬書房

 

G・ルカーチ『歴史と階級意識』未来社

 

浅田彰『構造と力-記号論を超えて』勁草書房

 

網野善彦『日本社会の歴史』岩波新書

 

岩田弘『現代社会主義と世界資本主義』批評社

 

上野千鶴子『ナショナリズムとジェンダー』青土社

 

大塚久雄『欧州経済史』岩波現代文庫

 

木村敏『時間と自己』中公新書

 

遠山啓『無限と連続-現代数学の展望』岩波新書

 

中井久夫『分裂病と人間』東京大学出版

 

林達夫『林達夫セレクション2-文芸復興』平凡社ライブラリー

 

廣松渉『マルクス主義の地平』講談社学術文庫

 

丸山真男『日本の思想』岩波新書

 

山口昌男『道化の民俗学』ちくま学芸文庫

 

湯川秀樹『物理講義』講談社学術文庫

 

文学

 

エーリッヒ・アウエルバッハ『ミメーシス-ヨーロッパ文学における現実描写』ちくま学芸文庫

 

フレデリック・ジェイムソン『言語の牢獄』法政大学出版局

 

ヴィクトル・シクロフスキー他『ロシア・フォルマリズム論集』現代思潮新社

 

スーザン・ソンタグ『反解釈』ちくま学芸文庫

 

ブルーノ・タウト『日本文化私観』講談社学術文庫

 

ウラジーミル・ナボコフ『ヨーロッパ文学講義』TBSブリタニカ

 

ジョルジュ・バタイユ『エロティシズム』二見書房、ちくま学芸文庫

 

ノースロップ・フライ『批評の解剖』法政大学出版局

 

リイス・フロイス「日欧文化比較」『大航海時代叢書<第1期11巻>』岩波書店

 

稲垣足穂『少年愛の美学-稲垣足穂コレクション』河出文庫

 

加藤周一『日本文学史序説』ちくま学芸文庫

 

柄谷行人『日本近代文学の起源』講談社文芸文庫

 

寺山修司『戦後詩-ユリシーズの不在』ちくま文庫

 

中村光夫『明治文学史』筑摩叢書

 

橋川文三『日本浪漫派批判序説』講談社文芸文庫

 

蓮實重彦『反=日本語論』ちくま文庫

 

平野謙『昭和文学史』筑摩書房

 

前田愛『近代読者の成立』岩波現代文庫

 

芸術

 

アントナン・アルト『演劇とその分身』白水社

 

グラウト&パリスカ『新西洋音楽史』音楽之友社

 

ケネス・クラーク『芸術と文明』法政大学出版局

 

レム・コールハース『錯乱のニューヨーク』ちくま学芸文庫

 

E・H・ゴンブリッチ『芸術と幻影』岩崎美術社

 

ギー・ドゥボール『スペクタクルの社会』平凡社

 

ジョン・バージャー『イメージ-視覚とメディア』パルコ出版局

 

ベーラ・バラージュ『視覚的人間-映画のドラマツルギー』岩波文庫

 

ロラン・バルト『明るい部屋-写真についての覚書』みすず書房

 

バンハム『第一機械時代の理論とデザイン』鹿島出版会

 

アンリ・フォション『形の生命』岩波書店

 

フラー『宇宙船地球号-操縦マニュアル』ちくま学芸文庫

 

ケネス・フランプトン『モダン・アーキテクチュア』ADA

 

ニコラス・ヘヴスナー『モダン・デザインの展開』みすず書房

 

ウィリアム・モリス『ユートピアだより』岩波文庫

 

阿部良雄『群集の中の芸術家』ちくま学芸文庫

 

磯崎新『建築の解体-1968年の建築状況』鹿島出版会

 

井上充夫『日本建築の空間』鹿島出版会

 

岡崎乾二郎『ルネサンス-経験の条件』筑摩書房

 

岡本太郎『日本の伝統』講談社現代新書

 

小泉文夫『日本の音-世界のなかの日本音楽』平凡社ライブラリー

 

高階秀爾『日本近代美術史論』講談社学術文庫

 

柳宗悦『南無阿弥陀仏-付心偈』岩波文庫

 

 

 

小川環樹・木田章義注解『千字文』岩波文庫

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コメント

>大学生の年ごろは、妙にませた若者もいるにはいるが、たかだか二十年かそこいらしか生きていないのだから、教師の年代から見たら無教養で、経験不足で使い物にならないと見えるのは当たり前である。そこを何とか引き上げるのが教師の責務だろう。

残念ながら、これがわからない秀才で馬鹿―これらは両立する―な先生が多い。こういう先生は大成する者も少なかろう。

手短に感想を箇条書きで。

初め、日本の学校で、素晴らしい先生から、テキストを丁寧に読むことを教えられた。参考書や解釈書を使わず、予断を入れずに自分で読み解くことも教えられた。これがなかったら、自分というものがなかっただろう。今でも感謝している。

後で、アメリカの学校で、素晴らしい先生から、本は全部(隅から隅まで)読むなと教えられた。自分で読んだ後は、必ずできうる限り他人の解釈も考察しろとも教えられた。これがなかったら、今頃、名著数冊読んで世界を知ったつもりでいただろう。だから、とても感謝した。

この順序が逆だったどうだったろうかとも想像してみる。少なくとも、どちらも大切なことは確かだ。

著作リストを見て、異議のあるもの(というより嫌いなもの)もあるが、読めたら読んでおくに越したことはないものを集めていると素直に思った。しかし、日本の作家は当たり前だが、外国の著作とされるものも、実は国が違えば読んでおいたほうがいいものの常識は変わる。そして、それは翻訳があるかないかに大きく左右される。このことは日本ばかりではない。アメリカだって翻訳がないと広まりにくい。その他の国も同じ。

翻訳文化といえば岩波教養主義とも重なるが、「創世記」を読むのになぜ岩波文庫でなければいけないのか。関根正雄の訳のどこがどう違うかも知らない人の推薦だろう。何も650円出して買わなくてもいい。聖書協会の聖書はたいていの図書館にあるし、家庭の書棚で眠らせている人も少なくなかろう。そこの一番最初が「創世記」だから、それで十分だし、関根氏個人の訳よりいいところもむしろ多い。(註を読んでわかったつもりになりたいなら別だが。)

勝手ついでに、「存在と時間」などよりフッサールの「デカルト的省察」か「ヨーロッパの危機」を取り上げてほしかった。どちらも(後者は部分訳)中公の世界の名著にあったはず。4、5年前神田の古本街で何軒も探したが、目(セットの中で入手しにくいバラのこと)になっているのでバラ売りはなかなか出てこないと言われた。

いずれにしろ150のお薦めは、ないよりあるほうが助かるだろう程度のことだ。このようなお薦めが時代錯誤かもしれないが、また150の本の中には今更という時代錯誤の本(古典を除く)が多いことも事実だろう。

木田元のその本はまだ読んでいない。中村先生の推薦なら読んでみよう。日本の大学から哲学科が少しずつ姿を消し、変な社会学野郎が哲学家などと自称する時代になったが、木田元は本物の哲学研究者だ。そういえば、中公の「ヨーロッパの危機」は木田先生の訳だったと思う。

MWW

投稿: Dr. Waterman | 2007年3月 8日 (木) 15時14分

ドゥルーズを読んでもいないのに、あるいは、読めてもいないのに、おしゃべり扱いはどうかと思いますね。どうして読みもしないテクストを、流通しているイメージだけで批判しようとするのか、まったく理解に苦しみます。

投稿: | 2009年4月21日 (火) 04時58分

正確に言うと、ドゥルーズとガタリの共著です。図書館で斜め読みしたけどよく分からなかったので解説本を何冊か読んでみて、どんなことを言いたいかようやく分かった次第です。
こういうものを大学生に推薦する奴の気が知れないと思って書いたまでで、それは今でも正しいと思っています。
「理解に苦しむ」といわれもあなたの苦しみを解く気は無いのであしからず。

投稿: 隆一郎 | 2009年4月21日 (火) 11時25分

僕はまだ17歳なので下手な書き込みをすると、頭の悪さを露呈してしまいかねないような気がしますが、この記事に関して言えば、あなたの発言は根本からして間違っていると思います。

タイトルにある時代錯誤という言葉は通常、時代に取り残されたもの、時代遅れなものを示唆しますが、書物に時代とか流行だとかいう概念を適応させようとするあなたの窮屈な発想は、科学的ながら科学には向いていない、逆説的な独断論にしか見えず、少々目に余るものがあります。

ドゥルーズ、ガタリの共著も読みましたが、名作であることに疑問の余地などあったでしょうか。なぜ、あの書物が評価されているのかに疑念を抱くのであれば、おそらくあなたは言語感覚が不自由な余りに内容を理解していないか、「現代的な意義」という哲学者ぶった思考体系でしか物事の基準を計れない、憐憫の避雷針の如き対象としての人間であるか等の、様々な障害を抱えている可能性があります。いずれにせよ、反古典教養主義を標榜することで、時代を先取りしているかのように擬態する、中学生のような気取った態度は本当に劣悪で恥ずかしいものだと思います。

最後に、「アンチオイディプス」を書いたことと、フランスが二度も戦争に負けたこととの因果関係について教えてください。それと、反古典教養主義を主張するあなたには「反哲学史」がさぞ面白く読めたのでしょうね。羨ましいです。

投稿: 小夜 | 2011年11月 1日 (火) 21時17分

どうやら君はサルではないらしい。

投稿: 隆一郎 | 2011年11月 2日 (水) 05時09分

サルではないらしいといったけど、君が17才だということなら二言三言いっておこう。

「時代錯誤」という言葉が「通常、時代に取り残されたもの、時代遅れなものを示唆」するというのは間違い。むしろ「時代認識に誤りがある」主体の側の問題をいいます。敷衍すれば、主体が現在における喫緊の主題を捉え損なっていることを意味します。
このような間違った前提をたてると、僕が「書物に時代とか流行だとかいう概念を適応させようと」しているかのごとき誤解をするのは当然の結果です。君の認識にはあきらかな間違いがありました。

ただし、書物に時代とか流行だとかは確実にあります。いや、むしろ今日古典と言われるもののほとんどすべては、その書かれた時代を反映しているし、その時代に流行したものです。一例をあげれば、ヘーゲルは欧州の学会を制覇する一大学派を作り、その中から出てきたマルクスは19世紀の社会問題を解決する方法について考えました。いずれも今となっては立派な古典です。またギリシャ哲学をうんだ社会が奴隷制度の上に成り立っていたことも留意しておくべきことです。デカルトの「方法序説」も当時のキリスト教会の見解抜きには成立しなかったものです。古典が普遍的テーマを持つゆえに時代から超然としているなどと思うのは、甚だしい誤解です。

この稿で僕が言いたかったことは、以下のことです。
文明開化の時代には、とりあえず大急ぎで西欧の文物を取り入れるのが日本の知識人に課せられた仕事でした。岩波文庫などはその役割を十分果たしたといえます。しかし、欧米の文化がどういうものか、日本の近代化の過程がどうであったかを一応俯瞰できるようになった現代においては、日本人の誰もがエリート知識人としての教養を持たねばならない、などと言うことはありません。
人にはそれぞれ生きていくために必要なことがあります。そのために、古典から現代に至るあらゆる書物を手当たり次第に読まなければならないなんてことはない。むしろ各個人の関心のありように従って、必要な書物を選択するというのが自然であり、身につく読書法だと僕は考えているのです。

「必読書」にあげられている本を「読まなければサルだ」などと脅すのは、現代において、エリート知識人を養成しなければならないという,ありもしない幻想にとらわれている証拠ではないか。それが時代錯誤だといった理由です。

そのくせ、もっとも現代的な問題である戦争のことになると、古典で頭がいっぱいになっているせいか、ろくな対応もできない。アラブの事情などからきしわかっていないのです。
本文中に「さすが、1991年の湾岸戦争が始まろうとしているときに、押っ取り刀でやってきて「戦争反対!」と叫んだ連中だけの事はある。」とありますが、これは2007年に書いたもので、その後(2011年1月)「「論争」をきっかけに考えたことー第一章の途中」という記事でそのことを詳しく述べています。興味があったらお読みください。


ぼくが「反古典教養主義を標榜」していると受け止めたようですが、「読まないより読んだ方がいいに決まっている」と書いているように、誤解です。教養主義というのは、役にも立たない知識を詰め込んで、いざというときに現実に対処できないことをいいます。そういう意味では僕は反教養主義です。

最後に、アンチオイディップスについて。
「『アンチオイディップス』が名作であることに疑問の余地などあったでしょうか。」とありますが、誰が名作だといっているのでしょう?
これには、「資本主義と分裂症」というタイトルがついているように、いわばフロイトの発明した精神分析をマルクス主義で解釈したようなもの(安易なまとめで恐縮ですが)で、労作には違いないが、これが一体何の役に立つのか、どんな影響力を発揮するのかはおそらく将来の問題だろうと思っています。僕は名作だといっている人にまだであったことがない。引用しているのは仲正昌樹くらいか。小谷野敦はたしか評価しないのではなかったか?こういう評価の定まっていない、特にポストモダンと言われる時代のものは、否定のための否定といったことが多く、あまり生産的でない議論が多いので、注意が必要です。

フランス人のおしゃべりというのは、
ジャン・ジャック・ルソーを紹介した中江兆民が、「俺ならこの三分の一で同じことを書ける」といったことに由来します。
フランスが戦争に負けたのはほんの冗談のつもりです。

以上、二言三言言わせてもらいましたが、気を悪くしないでもらいたい。

投稿: 隆一郎 | 2011年11月 4日 (金) 06時59分

書き忘れたから追加。
「「現代的な意義」という哲学者ぶった思考体系でしか物事の基準を計れない、憐憫の避雷針の如き対象としての人間」
これは、いくら考えても意味がとれない。
自分ではわかっているのだろうが、他人にはとても理解できない文章です。
いや、解説していただかなくてけっこうです。こういう文章を書くと言うことはよほど頭がいいに違いない。

投稿: | 2011年11月 4日 (金) 07時11分

受験シーズンで返事が出来なくて申し訳ありませんでした(笑) 今回で最後のコメントになるでしょうが、答えなくてはならない範囲内で答えます。時間が無いし、隆一郎氏が自分で招いた誤謬くらい自分で処理して欲しいからです。

まずコメント大半のありきたりな自己矛盾的反論について。言ってることが記事とほぼ変わらないし、答えになっていない。上記の通り、自分で招いた誤謬は自分で片付けてください。

そして、「アンチ・オイディプス」について。盛大なボケをかましてくれていますが、ドゥルーズ=ガタリの主張はマルクスとは無関係だし、フロイト、ユング、ラカンに至っては批判しています。何を批判したかの一例をあげると、幼児の親に対する潜在的で本能的な欲求をエディプス・コンプレックスという形でフロイトらは捉えましたが、そうした本能的なものを意識下の根底に据えて言及すること、情動というものの制限と抑制に対する猛烈な異議申し立てを表明したわけです。要するに、「アンチ・オイディプス」。『いわばフロイトの発明した精神分析をマルクス主義で解釈したようなもの(安易なまとめで恐縮ですが)』などこの世に存在しませんし、必要ありません。

資本主義と言われると、「あぁ、マルクスだろ?知ってるよ」とでも言いかねない、形容し難い独断論的偏見……。

取り敢えず、言ってることが根本的に違いますので、『解説本を何冊か読んでみて、どんなことを言いたいかようやく分かった』というのは誤謬というよりは完全な知ったかだということを自覚しておいてください。

「アンチ・オイディプス」は、実際はもっともっと奥が深い(副題にもかなり緻密に考え抜かれた多元的重層性があります)作品ですが、まぁ、説明は軽くこんなところでしょうね。私も安易なまとめで恐縮ですが(笑)、これでさよならです。もうこのブログには二度と来ません。訪れる機会が二度もあったことが奇跡です。しかし、これも一つの縁ですので隆一郎氏には感謝(?)の意を示しておきたいと思います。ありがとう、そして、さようなら。

投稿: 小夜 | 2011年12月 5日 (月) 06時47分

まさか返事が来るなんて思ってもいなかった。受験は大丈夫か?「アンチオイディプス」なんて大冊を読む暇があったら受験勉強した方がいいのではないのか?心配である。
僕にとって、ドゥルーズもガタリもどうでもいいのだよ。(本文と関係ないことに突っかかってこられて迷惑してるんだ、ホントは。)
ただし、マルクスが関係ないというのは間違い。彼らがこの本を書いた動機について調べたらどうかね。いや、受験で忙しいのだろう。やめたほうがいいね。

君は二度と来ないとか言っているが、必ずやってくる。
これに対するコメントは要らないから。受験年教に専念したまえ。

投稿: 隆一郎 | 2011年12月 5日 (月) 09時24分

高校生に論破されてて笑ったw
挙句の果てに受験をがんばれなんて言ってるし、隆一郎さんは頭の治療に専念されてはいかがですか?w

岩波教養主義は表面的な知識を身につけさせても、本当の意味で「いまのわたし」に密着した生きた知を身につけさせるものではない。
というようなことがおっしゃりたいのだと思いますが、古典を古典として読むことにもそれなりの意味があって、一言でエリート主義の時代錯誤だと片付けてしまうのは少し単純すぎますよ。
たとえ教養のためにと建前から入ったからといって、生きた知識にならないなんて道理はありませんからね。

ちなみに、木田元の「反哲学史」はハイデガーの哲学史観を一般向けに分かりやすく説明している本であって、哲学史上独自の意義を持つものではありません。

投稿: 検索からきた通りすがり | 2012年8月 3日 (金) 20時19分

これを読んで、わけしり顔で書き込みをするのはもう止めてくれ。
「ところで、私がラカンについて書いたことを読んでびっくりした人がいるかも知れないのでいっておくが、いわゆる「フランス現代思想」とか「ポストモダン」とか「ニューアカデミズム」とかでもてはやされた「思想家」というのは、学問的にはほとんどインチキである。その中では文化人類学者のレヴィ・ストロースくらいがまともな学者と言えるくらいだ。
ラカンの他、ジル・ドゥルーズ、クリステヴァなどは、文章を論理的に読むことができない。ソーカルは、これら「思想家」の文章の中から、特に訳が分からない部分を抜き出して批判したが、浅田彰とか東浩紀とか、そういう思想家を持ち上げてきた日本の批評家たちは、この問題について何の総括もしていない。」(小谷野敦「日本文化のインチキ」幻冬舎新書)

投稿: 隆一郎 | 2012年10月12日 (金) 10時23分

これを読まなければサルである!
というのは出版社の帯文句ですからいちいちそんなに本気になって目くじらたてるのは大人げない

投稿: まるまる | 2014年2月 5日 (水) 14時01分

、学生相手に「これを読まなければサルだ」などと脅している。こういう浮世離れした連中に「サル」だと言われても、あまり気にしないほうがいいと学生諸君にはいっておきたい。しかし、聞き捨てならないのは、自分の教え子を取りあえずサルだと思っているらしいことだ。サルだと思われる節があるのかないのか、とりあえず、かわいそうに、教師にサルだと思われているとは。大学生の年ごろは、妙にませた若者もいるにはいるが、たかだか二十年かそこいらしか生きていないのだから、教師の年代から見たら無教養で、経験不足で使い物にならないと見えるのは当たり前である。そこを何とか引き上げるのが教師の責務だろう。

出版社の煽り文句をいちいち執筆者の本心だと突っかかるおたくの論調が時代にそぐわないようで

投稿: まるまる | 2014年2月 5日 (水) 14時09分

教養主義というのは、役にも立たない知識を詰め込んで、いざというときに現実に対処できないことをいいます。

じゃああなたはどうなんですか?
こんなブログで人の上げ足を取って文句を言っているだけですか?

投稿: まるまる | 2014年2月 5日 (水) 14時26分

何というか確かに今の時代には時代遅れなところはある本かもしれませんが、いちいち挙げ足をとってこんな長文をしたためるのを見てみるとおたくはルサンチマンの溜まった小心者の暇人のおっさんにしか見受けられません。
誰も聞いてくれる人がいないのかな

投稿: まるまる | 2014年2月 5日 (水) 19時32分

気がついたら、このまるまるという馬鹿は、僕のブログのあちこちに入って読んでいるらしい。しかし、腹立ち紛れに頓珍漢なことばかり書き込んで、己の阿呆さ加減をさらけ出している。困ったやつだな。

特にこの記事はよく読まれているのだが、これは一読して上げ足取りでも「出版社のあおり文句」に反応しているわけでもないことは明らかである。
よく読んでから、役に立つ書き込みをしろよ。

投稿: 隆一郎 | 2014年3月 6日 (木) 05時18分

最後の木田元推しで爆笑wwwww

投稿: | 2015年1月27日 (火) 18時45分

爆笑しているバカに告げる。
『「必読書150」に「反哲学史」を入れろといった理由』を読め!

投稿: 隆一郎 | 2015年2月 6日 (金) 06時49分

たくさん本を読んでたくさん知識をもっているんだろうけど
人間性は最悪だね

投稿: | 2015年3月14日 (土) 22時06分

既に様々な問題点は他の人によって指摘されているので控えますが、髪型やピアスなどで生徒の人間性を判断する事こそ年寄りの時代錯誤であって、偏差値との関連性は一切見出せません。そして古典作品が時代を超えた普遍性を持っているから超然としているという認識は誤解ではありません。それこそが古典作品である所以の一つの要因です。

投稿: | 2015年4月16日 (木) 03時24分

これは、生徒の「人間性」と偏差値との関連性を述べたものではありません。「人間性」については一言も言っていないではありませんか?誤解です。これは、偏差値が低くても、教師の教え方如何で、無知であることを知り、知に目覚めることができるという話です。
また、古典から学ぶ態度は結構だが、「書いた本人はその時代を生きていた」ということに留意すべきだと言っているだけのことです。
「それこそが古典作品である所以の一つの要因です。」こんなことはバカでも分かることだわ。

投稿: 隆一郎 | 2015年4月16日 (木) 10時27分

サル呼ばわりはただの商売上の売り文句なのでまじめに受け取るのが野暮のような意見がありますが、そんな下品な帯がぴったりな本ですね。所詮、売らんがための知的恫喝です。

呉さんのエピソード、いい話ですね。
いつか自然と古典にも手が伸びるでしょう。
実に授人以魚不如授人以漁だと思います。

投稿: | 2019年12月12日 (木) 19時02分

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