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2007年2月14日 (水)

「それでもボクやっていない」を見た

昨日Yに誘われて「それでもボクはやっていない」を見た。「Shall we ダンス?」の周防正行作品。内容は、よく知られているように痴漢の冤罪の話だ。この映画の損なところは、始めから結論が見えていることである。痴漢の裁判の有罪率は99.3%だそうだから起訴されたらまずはほとんど勝てない。そのためでもないだろうが、取り調べる刑事は「認めたら一泊で帰す、罰金刑で済ませられる」と容疑者を誘うらしい。否認すると何日も拘留されて、早い話が日常生活が壊れてしまう。おまけに、起訴されたら莫大な裁判費用がのしかかってくる。つまり、やっていないことを証明するのはやったことを証明するより何倍もの労力がいると想像出来るから、それを考えたら認めてしまったほうがいいということもあるだろう。不運と思ってあきらめるのだ。この映画の主人公の場合、就職活動の最中で、家族もいない。しばらく拘留するといわれても、差し当たり迷惑をかける相手はいなかった。そこで、この先何が起きるか想像もできないままに頑張ってしまったのである。正義は勝つと思っていたわけだ。当然の心がけです。
しかし、正義はいつでも勝つわけではない。したがって、注意深く行動することが肝要です。だれでも痴漢と間違えられる危険性は常にある。僕は通勤時間を三十分以上かけるのはナンセンスと思っていたので、最初は乗って十七分、引っ越してからでも乗り換え一回で二十五分と短かった。危ないのは混んだ電車に長く乗る時だ。痴漢が多いのはそういう電車である。女性の傍に近寄らないのが一番だが、そばにいたら手を上げて置くことだ。この犯罪は、女性が手をつかんで「この人、痴漢!」といったら成立してしまう。まことに女は危険である。君子はあやふきに近寄らないものであります。つまり女性を避けて生きる他ない。たやすいことですよね?
日本の刑法、刑事訴訟法は戦前のものを継承しているから、いくら改正したところで、根っこの思想は変らない。御上のご威光を思い知らせてやると言う態度だから、正義が行われると思ったら大間違いである。この映画でも出てくるが、刑事裁判でしばしば問題になるのが、検察側が自分たちに不利な証拠や証言」は出さないことだ。例えば、捜査の過程で得られた被告の証言でもすべて法廷にでるとは限らない。出たものは、脅されて言わされたと言ってもいいが、出されていないものには言及のしようがない。「あのとき、私はこう言ったはずだ。調書に取られたのを覚えている。」といっても、それは探したが見つからないといってすむのである。
最近、鹿児島で起きた選挙違反の公判でこれがあった。若い検事補がやくざまがいの脅しをかけて、証言させ都合の悪い調書を隠した件である。こういうのは、裁判長が倉庫をひっくり返させて探さないと出てこない。このやくざ顔負けの検事補(実際に凶悪な顔をしていたのに驚いた)は、問題になった途端に辞表を出して弁護士になってしまった。しかも、この事件は始めからでっち上げだったのである。ないことをあったことにしてしまった。こんなことでだれが利益を受けるのかはなはだ疑問だが、実際にあってしまうのが世の中だ。
こう言う事件の背景にもなっている最も大きな問題は、司法組織全体の利益を保全することがしばしば優先されることだ。しかもその中で何が起きているか?裁判官に決定権限があるのはひとまずいいとして、これが国家の組織、立派な官僚組織になっている以上、一般の官庁や会社のように出世街道があり、派閥や学閥があったりして、それが裁定に影響することがある。もっともらしい理屈を作るのは得意だから外にはあまりわからない。
この映画では、オフィスで司法修習生を前にして担当裁判官が「君たち、刑事裁判の要諦はなんだと思う?」と問うところがあるが、「公平を期す。」とか曖昧なことを応える修習生に、この裁判官は「冤罪をうまないことです。」ときっぱりいいきる。観客はここでほっとして、彼は無罪になるかもしれないと期待しはじめる。
場面はオフィスでの出来事であるが、法服をきた一人の裁判官がこの会話を聞きながら彼らの後ろを通って上司の席に着く。うまい伏線の張り方である。
次の公判で、何の前触れもなく裁判長が交代したと告げられる。席に着いたのは、あの上司とおぼしき裁判官であった。転勤はよくあることだというが、組織の管理者として「よく無罪を出す裁判官」の存在は自分の勤務評定に影響すると考えるのは極く自然の道理である。
この裁判官は打って変わって冷徹である。ここで観客はがっかりするのだが、すぐに探していた証人が現れ、決定的な証言になると再び期待を寄せることになる。
映画は、日本の刑事裁判の問題点をいちいち指摘しながら、一喜一憂する裁判劇としての面白さもあってよく出来た佳作といった趣があった。
被告になったら、あれだけ甚大な損害を被るわけだから、それでもなおかつ裁判を望むというのは余程のことで、ここは一つ「やっていない、無罪」としてもよさそうなものだ。「やっていない」といい張って起訴されたものは頑張ったご褒美で、みんな無罪ということにしたらどうだろう。うーむ、しかし、某元大学教授の例もあるしなあ・・・。
外国で上映したところ、失笑を買った部分があったらしいが、日本の警察や裁判制度に相当な時代錯誤があるとおもったのであろう。なにしろ、警察の留置にしても、拘置所、監獄にしてもまともな人間扱いをしていないことは明らかで、それは先進国の中でも飛び抜けて評判が悪いことはよく知られている。警察の取り調べにもようやくビデオが採用されるらしいし、裁判員制度もまもなく始まる。こう言う司法改革はおそらく明治以来のことだと思うが、すべて外圧によって実行されるようになったことである。米国は、自国の民主主義を世界に輸出することが人類全体のためになると考えている点でかなり能天気な国である。一貫性がなくて迷惑な点も数多くあるが、この百年の日本の硬直した司法制度を変えるに当たって、ああだこうだと文句をつけてくれたことには感謝していい。この間まで拷問があった(と言う噂)けれど、たいしたしがらみもなかった韓国の方がさっさと米国風を取り入れている。ついでに、裁判が遅いから、法曹関係者を増やせと言うのも米国のおせっかいだ。なにしろ、弁護士の数だけでも、米国約90万人に対して日本は2万人もいない。米国の弁護士には食っていけないものもいる。日本では、地方には弁護士が一人もいない地域があって、食っていけるのは都会だけである。これ以上増やしたら当然訴訟の数も増やさないと生活していけないことになる。弁護士がいやがるのは無理もない。数年前から日本でも弁護士事務所が広告を出せるようになった。マッチポンプの前触れである。
以前僕は、民事裁判の被告と原告の両方をやったことがある。僅かな金のことで訴えてきたから弁護士を紹介してもらうと、訴えた弁護士事務所を知っていて、ここは、勝ち目があろうとなかろうと取りあえず訴えさせるのを常套手段にしている、まあ悪質な弁護士だということだった。こっちに理があったから、逆に告訴しようということで原告になったのである。このときは、自分で裁判の戦略を考え、必要な証言を集め、文書を作って提出した。弁護士がやったことは裁判の日程を決めたことぐらいで、彼らがその頭脳を使ったことはほとんどない。結果は、一年あまり続いたあげく、向こうが負けそうになったと察知して示談を申し込んできた。いくらか金を取れそうだったが、バカらしいから応じておしまいにした。結局弁護士費用だけ払わされてしまったのだ。
弁護士が増えると訴訟も「増えなければ」ならない。そんな世の中になったら住みやすいか?考えるまでもないだろう。いまの人数で足りないのなら、パイにあった数で止めておかないとたいへんなことになる。クジラにたとえるのも変だが、増えすぎたクジラは生態系を壊す。日本の生態系に合った分だけ増やすべきだろう。
映画の話に戻ろう。次の日民放のBSで、偶然この映画をニューヨーク、ロンドンで法曹関係者に見せたドキュメンタリーをやっていた。周防正行監督が試写のあとティーチインをやっている。日本の司法制度にはなじみがなかったらしく皆きょとんという感じだった。司法制度にはそれぞれの国の事情が反映されている。どうしたらいいかは、自分で決めるべきものだが、そんなのおかしいよと、外国に言われるのも一つの契機には違いない。周防正行はいいきっかけを作ってくれた。

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コメント

この映画は、いつも訪れるサイト(例の三文映画)でも批評していたので、大筋の話は知っていた。しかし、世の中知らないことばかりで、個人が知っているのは浜の真砂の一粒もないことだから当然ではあるが、

>米国は、自国の民主主義を世界に輸出することが人類全体のためになると考えている点でかなり能天気な国である。一貫性がなくて迷惑な点も数多くあるが、この百年の日本の硬直した司法制度を変えるに当たって、ああだこうだと文句をつけてくれたことには感謝していい。

というように、組織的にまた政府間で司法制度の改革にわが国(米国)が貴国に文句をつけたことは知らなかった。多分、裁判があまりにも遅い国なのでいろいろな国(米国に限らず)が文句はつけたろう。ただし、近年貴国にできた法務大学院と称する実務大学院はアメリカの Law School の真似に違いない。

実は、わが国では、不良検察官だとか裁判官のことはあまり問題にはならない。私の甥の一人は、冤罪を無くすというよりは正義に一番貢献できる立場だからという理由で、弁護士を辞めて裁判官になった。(本当は、一番暇で遊べるし、誰にもとやかく言われないのが、のほほんとしてマイペースの彼の性格に合っているだけだが。)

本当の問題は、隆一郎氏が言うように、ヤクザ弁護士が多すぎることだ。良心的な医者や自動車の修理工まで、malpractice insurance が高くなり、それが患者や消費者の負担となって反映するのも、こいつらヤクザの仕業である。日本でも翻訳されたグリシャムの弁護士小説を読んだ人なら、具体的な悪行の数々もご存知だろう。これら悪徳弁護士の訴訟に歯止めをかける施策も年々増えている。

しかし、裁判というのは難しい。どこでも誰でも嘘が可能だし、悪意はなくても証人等の勘違いはある。私は、政治的には共和党の党員だが、死刑に関しては党の少数派で、疑問のある場合や本人が強く否認する場合は、死刑を延期するべきであるとの考えを持っている(単純な死刑廃止論ではない)。日常のことに加え、税務申告の時期で忙しいのに、来月6日から刑事事件の陪審員に選ばれている。ダウンタウンにある高等裁判所だ。義務だから仕方がなくて行くのだが、責任の重さを痛感する大仕事だ。(陪審員による裁判が選択された場合、有罪・無罪の判断はほぼ100%陪審員の表決で決まる。裁判官は、訴訟を指揮・監督するだけである。日本の新しい裁判員制度も同様であろうか。)

いつも通りのおしゃべりで、余計なことまで書いたかも知れない。ついでに皆様、前回の「千の風」のコメントの中で動詞が一つ抜けていましたので補います。[ ]内が挿入です。失礼しました。
>The text I used [is] as follows:

MWW


投稿: Dr. Waterman | 2007年2月14日 (水) 13時54分

日米政府は、このところ毎年、「日米規制改革および競争政策イニシアティブに基づく要望書」(The U.S.-Japan Regulatory Reform and Competition Policy Initiative)と言うものをお互いに取り交わしています。仲よきことは美しきかな、ではありますが、よけいなおせっかいということもあります。郵政民営化は郵貯のお金が欲しいから米国の意向でやったという人が多いのはご存知の通り。また、法科大学院は明らかに米国の「要望」に応えたものです。しかし、合格者がそれほど増えているわけでもなく、質の低下を招いていると関係者は嘆いているそうです。僕は質なんてことはあまり心配していないけど(いまだって「質」が高いといえるかね)やたらに増えるのは困る。増えると食わせなきゃいかん。いらぬ訴訟で宮沢賢治のようにうろうろ歩くはめになっては迷惑だ。適当にするのがいい。裁判員制度は日本でも昭和十八年ごろ五百件ほど経験しています。陪審員十二人で米国の制度と同じでした。戦争が激しくなってやめちゃいましたが、続けていたらよかったとも思います。監獄が一番問題ですね。看守を先生と呼ばせて平気な神経が分からん。僕は人権派などという人種は信用ならンと思っているが、この監獄の改革はこの際人権派にがんばってもらいたいものです。

投稿: 隆一郎 | 2007年2月14日 (水) 16時53分

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