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2007年2月 8日 (木)

映画「ありの兵隊」を見た(2006/8/2)

ドキュメンタリー映画「蟻の兵隊」を見た。
終戦時、中国山西省にいた北支那派遣軍第一軍59,000名のうち約2,600人が軍の命令でそのまま現地に残された。「天皇制護持。祖国復興。」がその理由であった。つまり、日本は一旦はポツダム宣言を受諾するが後日必ず復興する、その日まで兵力をこの地に温存しておく必要があるというものであった。
前年の11月、20歳で召集された早稲田専門学校生、奥村和一もその中にいた。彼らは、蒋介石国民党軍の一翼を担っていた現地の軍閥、閻錫山の軍に編入させられ八路軍(中国共産党人民解放軍)と戦った。
この国共内戦は四年におよんだ。その間、残留日本兵は550名が戦死、約700名が捕虜となった。奥村和一は迫撃砲弾を受けて重傷を負い人民解放軍の捕虜となって野戦病院で終戦を迎えるが、その後の党の「学習(思想改造のための教育)」を拒んだために水路工事、炭坑など重労働に従事させられ、ようやく帰国出来たのは5年後の昭和29年のことだった。
「中共帰り」はうさんくさく見られたため日雇いなどの仕事を転々、やがて早稲田大学第二商学部に編入した。同大を中退し、業界紙の記者、「中国展」開催の会社に勤務しているうち、自分たちは「現地除隊」となっていることに疑問を感じ、日本政府にこれを質した。帝国陸軍の命令で残留したと思っていたが、政府の記録は昭和二十一年三月除隊になっていた。しかもこれでは軍人恩給の対象とならない。そこで、名誉回復の是正を求めて、当時の戦友を集め軍人恩給訴訟を起こすことにした。
そしてこれを機に山西省残留兵問題として史料探しに取り組む。奥村は防衛庁史料閲覧室、都立日比谷図書館など各地の図書館で関係資料を収集した。さらに現地・山西省各地の公文書館や検察関係庁に出向き、真相の究明に挑んだ。
奥村には「残留命令」の証明の他にもう一つどうしても確かめたいことがあった。入隊まもなくの45年2月。「肝試し」と称する初年兵教育仕上げの刺突訓練があった。罪人とされた中国人を立たせ、銃剣で刺殺する。「怖くてたまらない。目をつむったまま当てずっぽうに刺す。古年兵に怒鳴られながら何度も刺突くうちに心臓に入った。『合格』」の声。」
罪人は何人もいて、中には将校によって首を刎ねられるものもいた。しかし、奥田はそれらをまともに見ることも出来ず、彼らがどんな罪に問われたのかさえ分からなかった。
この「人を殺した」ことが奥村の脳裏から離れない。あの時何が起きていたのか?奥村はそれを知りたいと思っていた。「現地除隊」の真相は防衛庁の資料からおおよそのことが推測されたが、現地に赴いて山西省の公文書館で資料をくくっているうちに軍閥閻錫山と北支那派遣軍司令官・澄田?四郎中将との間でかわされた「密約」を証明する文書が見つかった。
当時、澄田中将は降伏の相手である閻錫山に戦犯として捕らえられておりいつでも処刑の恐れがあった。共産軍との戦いに手を焼いていた閻錫山が日本軍を利用しようとして澄田に助命と引き換えに残留を持ちかける。澄田は全軍というわけに行かないが、一部ならかまわないと妥協した。こうして残留特務団が編成されることになったのである。
この部隊に対しては、第一軍によって軍務の細則まで決めた文書とともに「軍令」として正式に発令されている。これに対抗して共産軍が鉄道などを破壊したために、引き上げについては混乱を極めていた。この異常事態を察知したものがいる。
支那派遣軍総司令部作戦主任宮崎舜一中佐は昭和21年3月9日、南京から北京経由で空路山西省省都太原に入り、澄田将軍以下北支那派遣軍第一軍の中枢と会った。総司令部の命令に違反する特務団編成を二日間に渡って難詰し、直ちに全軍を内地に引き上げるよう伝えるが全く聞き入る気配がない。宮崎中佐はむなしく帰還した。
澄田らは閻錫山に軟禁状態にされていたが、共産軍の勝利が決まった途端に残留特務団を置いたままさっさと内地に引き上げている。澄田は満州の利権に深くかかわっていたようで、これを知った米国が戦犯として訴追しなかったといわれている。
一方、奥村のもう一つの気掛かりであるが、乏しい記憶をたどってようやくあの処刑現場に立つことが出来た。当時のことを知っている人々に会って話を聞くが、自分がその兵士であることを隠そうとしない。支那の人々もすでに代替わりになっている。あの時処刑されそうになって逃げた人の息子が現れ極めて冷静に状況を説明する。
ここには鉱山があって日本軍の守備隊が駐留していた。あるとき八路軍の夜襲があって、矢倉の上で見張りをしていた現地徴用の支那人が対応したが、八路軍に同胞同士戦うことはないと説得されて持ち場を離れたらしい。朝になって帰ってきたらスパイ容疑で捕まったというのである。奥村はあきれて開いた口がふさがらなかった。何故のこのこ帰ってきたのか?!
そして、他にも何人かの戦争体験者にあって話を聞く。当時16歳の少女だった女性は日本兵に親の目の前から連れ去られ、十数人に強姦された。父親が身代金を要求されて家を売って金を作った、と淡々と語る。しかしもう過ぎ去ったことだ、私たちは未来のことを考えていかなければならないと言う穏やかな表情が印象的だ。
また、現地の検察院に残された日本兵自身が残虐行為を告白した手書きの文書にも目を通す。戦友のものもあった。奥村はそれらの文書をコピーして持ち帰り、書いた本人に渡すのだが、あるものは全部記憶していると受け取ることを拒否し、あるものは読みふけってため息をつく。認知症の妻を介護する元将校、優しい老人である。戦争とは何か?兵士とは何か?それ以上に戦場とは何か?を考えさせる場面である。
ところで、訴訟はどうなったかといえば、最高裁までいって敗訴になった。不思議なことに判決文に判事の署名がなかった。どういうわけかと電話で訪ねると事務の若い女性が言うには「物理的に出来なかった」と言う応えであった。物理的とは転勤か何かで「いない」という意味かと問うと、「そんなところだ」という極めて曖昧な返事に奥村はそれ以上追求することに萎えてしまった。
当時を知る元将校の家を訪ねるが会うことを拒否され、雨の中を帰る「蟻」にされた元兵士。その目に一滴の涙も見せなかったのが、実に印象的だった。

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