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2007年2月 8日 (木)

死に際(2006/6)

自分が凝り性だとは不惑の年まで気付かなかった。ハマると底が見えるまで出てこられない。ライフワークというのも変だが基本的な関心事である思想書の類いは別として、ある時期興味の対象が一塊になって現れる。最初は「照葉樹林文化」、百冊以上の本を集めた。「石原莞爾」は数十冊の本を古本屋から仕入れて読んだ。不思議なことに最近になってもこの軍人を書いた本が出版される。篆刻に夢中になったこともあった。そして、「文明の生態史観」、梅竿忠夫から民俗学まで。文系だけではない。量子論、超ヒモ理論、分子生物学、動物行動学・・・。いまはまっているのは、「呉智英」。


なぜかというのは前に書いたが、本屋で立ち読みした本の中に宮崎学の「突破者」から引用した文があって、その中に若き日の呉智英の抱腹絶倒な姿があったからだ。彼は学者でも研究者でもないから、著作といっても短い文を集めた本が何冊かあるだけだ。だからコルといってもそんなに長く続くものでもない。ただ、考え方は同意することが多く、読んでいて非常に参考になる。しかも、面白くおかしい。ユーモアの質が知的で上品だ。波長が合っているといえる。
その呉智英が「岩波新書が面白くない。」と書いている。勿論編集方針のことだ。そのうち誰かそういうだろうと思っていたから心の中で快哉を叫んだ。ここ二十年ほど広告を見るたびに読みたくなるものが一つもないと思ってきた。ずれている。つまり時代の関心がどこにあるのか分かっていないのである。


そう思っていた矢先、岩波新書が装丁をいじった。(紙質を変えただけだが)いじったついでなのか、編集方針も変えたように見える。僕は何十年ぶりかで岩波新書=「世界共和国へ」(柄谷行人)を買った。読み始めてすぐに分かったことは、これは柄谷行人が最近大田出版を中心に出してきた本の焼き直しだと気がついた。編集者は恥ずかしくないのか。岩波もいよいよおしまいだなあ。
昔はどうだったかといえば、多少はためになったのもあった。ロングセラーもいくつかある。そのロングセラーのひとつについて呉智英が書いている。古在吉重「思想とはなにか」である。彼はそのころ(80年前後)思想と宗教というようなことを考えていて、あるとき本屋の棚でこの本を発見し、それが60年の初版だったことに驚いて不明を恥じた。古在といえば岩波哲学辞典の編者にして左翼系の哲学者、これは読まずにおられないと早速買って読んだ。


「読み進むにつれ、私は痛憤を覚えた。何という馬鹿げた本だろう。何という馬鹿げた哲学者だろう。この本には書名に反して最初から最後まで思想とはなにかという問いに対する応えなど一つも出てこない。あるのは安っぽい政治的アジテーションだけである。」
僕はこの本を大学の生協で見ていたが、古在吉重といえば日本共産党のシンパだったから、書くこともその周辺に違いないと敬遠していた。読んだ呉智英にいわせるとこういうことになる。「哲学者は、実に二十余年間、思想とはなにかについて、何一つ考えていなかったのである。
読後、私は三十九度の高熱を発した。医者は原因不明だといったが、私には原因は分かっている。」この新書はタイトルが魅力的なだけで、中身は期待した分、頭痛というか悪寒というか高熱が出るような代物だったのだ。
しかしこの頃の編集者にはタイトルの名人がいたらしく、ロングセラーには「知的生産の技術」「実存主義とは何か」「日本政治思想史」など思わず手にしたくなるような魅力あるものが多い。レベルはそれぞれだが、せいぜいだまされないようにしなければ、高熱にうなされることになるかも知れない。


古在吉重で思い出したが、あの頃日本共産党のシンパで「資本論」の翻訳者、向坂逸郎がいた。新書とは関係はないが、やはり呉智英が向坂に関連する逸話を書いている。「反骨と知性の人のように扱われてきた革新派の旗頭向坂逸郎が、実は権威と権力と金が好きな俗物で・・・」という話である。これには驚いた。あの向坂逸郎がねえ。
それは「マルクスに凭れて六十年」(青土社)という自伝の中にあるらしい。岡崎次郎という人が来年八十才を迎えるという時におそらく人生の区切りとして書いた。この人は明治三十六年生まれ。旧制一高、東京帝国大学文学部、経済学部を出た。学生時代にマルクスに出会い、戦前は一年ほど拘置所に入った。思想上も人脈上も労農派に近いが、自分はマルクス主義者ではないという。なぜなら自分には社会主義者としての実践がない。意志薄弱にして遊び好きの自分が、大きく人の道を踏み外すこともなく生きてこられたのも、まともな勤め口もないのになんとか糊口をしのいでこられたのも皆マルクス様のおかげだ、というのである。主として翻訳の仕事を続けてきたものであろう。
その間に向坂逸郎の下訳という触れ込みで受けた仕事が、いざでき上がってみると、自分の翻訳がそのまま使われていたり、翻訳料の支払いも悪く踏み倒されるようなこともあった。


呉智英にいわせると、「硬骨というのともちがい洒脱というのともちがい飄逸というのともちがい、しかもその全部である当時のエリート秀才の実像を目の当たりにするようで、誠に面白い読み物となっている。」というのだから岡崎次郎が「ためにしよう」とそんなことを書いたのではない。向坂の逸話は自分の人生の点景として自嘲気味にスケッチしたものだろう。
向坂の吝嗇ぶりはいい。僕が触れたかったのは実はこの岡崎次郎の話の方だった。彼は自伝の終わりにこう書いているという。「いま私にとって問題なのは、いかに生きるかではなく、いかにしてうまく死ぬかである」「せめて最後の始末だけでも自主的につけたいものだ」。この自伝は遺書のつもりで書いたのだろう。本がでた後さりげなくお別れのパーティを開いた。家財を売ると「これから西の方へいく」と告げて夫婦は旅立った。1984年のことである。それ以来、行方はようとして知れない。
人がどのようにして自分の人生に始末をつけるか。これは自分にとっても大きな問題だ。この文は別冊宝島「自殺したい人々」にのせられているが(「犬儒派だもの」に収録)、他に藤村操、円谷幸吉、詩人松永伍一が著書の中で紹介した信州の無名の農婦の遺書が紹介されている。この文を何回か読んだが、呉智英の不思議に乾いた文体の奥に何かが噴出するのを押さえているようなものを感じて、読むたびに目頭を熱くした。

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