2009年12月15日 (火)

羽毛田発言の愚

当ブログは、原則として時事問題を扱わないが、マスコミの馬鹿さ加減にあきれて今回だけは一言申し上げる。(暇だなあ!) 読売新聞によれば「宮内庁に意見1千件超、羽毛田長官支持が多数」だそうだ。 いきさつは、皆承知のことだからいちいちいわないが、この論調では、国民は皆宮内庁長官の発言を支持しているということになる。 国民の一人である僕としては、断固支持できない。 第一の理由は、客が来る前に「来てもらっては迷惑」ととられる発言だからである。 日本政府が「歓迎します」といったかどうかはともかく「陛下はお会いになります」と返事をしたのだろう。 客の方としてはその気になったのだが、訪問する前に何だか騒ぎになっていて自分が行くのは迷惑なのかと考えてもおかしくない。僕ならそう考える。そんなに騒いでいるなら辞めようかと考える。しかし、相手の政府が「いい」といったのに取りやめるという理由も根拠もこちらにはない。...

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2009年12月 1日 (火)

劇評 「教会の見える川辺で」

急逝した父親が残した小さなホテルを、二人の姉妹のうち妹の麻衣子( 境ゆうこ )が引き継いでいる。舞台はそのホテルのロビー。上手にソファと電話台、下手手前には狭いフロントがある。 三年ほど前の雨の日に、ふらりと現れた北村と名のる男(小松幸作)がそのまま居着いて雑用をこなしている。妹がこの男に惚れたのだ。他にアルバイトの子を傭って十分やっていける程度のホテルである。 近所のスーパーの息子(鈴木達也)が写真好きで、このホテルの日常を撮った作品を雑誌に投稿したところ入選して掲載された。それからホテルに無言電話がかかってくるようになる。 一方、姉、環(松岡洋子)の方は子供のいる男に嫁いで何年かになるが、その女の子がもう高校生だというのに若い男(橋本拓也)と浮気をしている。その相手というのが、妹の高校時代のあこがれの的だった。姉はそれを知っていて男を誘った節がある。 若い男は、水槽+熱帯魚のセールスが...

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2009年11月 4日 (水)

劇評「冒険王」

 左右の壁際に二段ベッドが二づつ、手前に上段を取り去ったベッドが一つある。小さなテーブルと腰かけが数個、開いた空間を埋めていて、奥に狭い出入り口が切ってある。ベッドの手すりには大小色とりどり、泊まり客のタオルがかけてあって、いかにも粗末な木賃宿風である。客のいるベッドでは、リュックを調えていたり本を読んでいたり、ただ横になっているなどそれぞれが思い思いの時を過ごしている。 出入り口から左手に進むとこの建物の玄関があって、比較的にぎやかな通りに面しているらしい。その通りを少し行くと欧州と亜州の境界をつなぐ橋が見えるという。つまり、ここはイスタンブールの街中で、見えるのはポスポラス海峡を渡る橋のことである。 ところが、この宿に泊っているのは日本人の若者ばかりで、彼らのうちの一人が硝子のカップにいれた砂糖たっぷりのトルコ風紅茶(チャイというらしい)を作っては、しきりに飲んでいるという光景がなけ...

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2009年9月 7日 (月)

『常念岳』(2,867m)に登る

1,安曇野 二十年ほど前、どんないきさつだったかすっかり忘れてしまったが、映画のシナリオを頼まれたことがあった。 確か信州安曇野にアミューズメントパークのようなものを作る計画が持ち上がって、そこで上映する映像を制作するというようなことだったかと思う。その頃、広告のための取材原稿などを書く仕事をしていたので、シノプシスくらいは書けるだろうとその話にかかわっていた友人が誘ってくれたのだ。 シナリオライターでもない僕が巻き込まれたのは、才能の問題ではなく、たとえ途中でこの話がつぶれてもギャラは発生しないという暗黙の了解からである。こっちも勤め人はとっくに辞めているし、時間は自由になったからつきあうことにしたのであった。 安曇野を主題にするという以外、これといって条件はなかった。なにしろ、遠大な構想(ほとんど忘れてしまった)は聞かされたものの、どんな「アミューズメント」になるのか具体的なことは...

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2009年5月25日 (月)

劇評「表裏源内蛙合戦」

 1970年、劇団テアトル・エコーが恵比寿の稽古場に定員八十あまりの小さな劇場を作った。そのこけら落としで上演されたのがこの作品である。 戦後すぐ(1950年)に北沢彪が中心になって活動を始めた勉強会「やまびこの会」がやがて劇団に発展したのがテアトル・エコーである。北沢は戦前、長岡輝子らとフランス喜劇を上演するグループを作ってたびたび公演していたが、その喜劇をやりたい若い連中が周りに集まってきたという。社会主義リアリズム全盛の時期だから痛いほど気持ちは分かる。あんな馬鹿にまじめなものばかりではかなわんと思ったに違いない。 そのモットーに、わが国では、喜劇が一段程度の低いもの といやしめられて来たが、“喜劇”こそ現代を映し得る演劇と信じ、その復権を目指す、とある。ルーツにはフランス喜劇(コメディ)があるから、喜劇といっても昨今のおばか、お笑いブームにはなんの関係もない。 創設以来、キノトー...

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2009年4月21日 (火)


劇評「フユヒコ」

物理学者寺田寅彦、晩年の家庭生活を描いたもので「東京原子核クラブ」に続いて97年に書かれた戯曲である。「東京・・・」は、理化学研究所を舞台にした群像劇、いわゆるグランドホテル形式の芝居であったが、寺田も理研に関係していたからその時想を得たものと思われる。この戯曲は「赤シャツ」(=漱石)「MOTHER」(=与謝野晶子)と合わせてマキノノゾミ三部作といっている。あとの二つは見ていない。「東京・・・」は、後半の特に戦後の場面がうまく書き込まれていなくて、へなへなと腰が折れてしまった感があった。(劇評参照) それに比べると、この芝居は家庭という狭いところにフォーカスした分うまくまとまっていて、複数の戯曲賞をとったことは諾える。何よりもユーモアの質が知的で上質、構成がしっかりまとまっていて、非常によくできた芝居である。反面、学者としてあるいは文章家としての寅彦については独白、暗転時のナレーションとし...

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2009年3月14日 (土)

劇評『山の巨人たち』

舞台の奥から手前にかけて太鼓橋のような広いアーチがむかってくる。その道は、かなりきつい傾斜でおりてくると、途中ですっぱりと切れ落ちている。その下は暗くて見えないがどうやら奈落である。役者が躓いて転んだりしたら穴の底に落ちてしまいそうだ。アーチの頂上あたり、道を挟んで同じような石造りの建物があり、小さな入り口が開いている。 そこは「ラ・スカローニャ」(不運)と呼ばれるところである。人里からだいぶ山の中に入った渓谷にある屋敷で、魔術師のコトローネ(平幹二朗)が、「ラ・スカローニャ」の住人たちと共に住んでいる。その連中は、コトローネをリーダーとする妖術使いあるいは妖精らしきものの一団で、不運という名が示す通りどこか奇妙な身体的特徴を持っている。 そこへ伯爵夫人イルゼ(麻美れい)が率いる劇団の一行がこの人里離れた屋敷を目ざしてやって来る。かつて人気の劇団も今や零落して、つてをたどってこのような山深...

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2009年2月18日 (水)

劇評「おーい幾多郎」

この所、やぼ用があって吉祥寺に行くことが多い。前進座の本拠地ということがあるのかどうか、劇場が多い街だ。吉祥寺シアターの名前は聞いていたがどこにあるかは知らなかった。武蔵野市がやっているという割には地味なところにあって、たどり着くのに息が切れた。 芝居は西田幾多郎の評伝劇だが、書かれたいきさつが少し変わっている。 「金沢市民芸術村」(市営)が松田正隆を講師に招いて開いた第二回戯曲講座(2002年)に参加した池田むかうの作品である。池田は東京出身だが結婚して三十年来金沢に住んでいる。経歴は不明、家庭の主婦だということらしい。 戯曲講座なるものがどんな内容なのかは知らない。松田正隆が指導したのだろうが、戯曲としてよく書かれている。いくら松田の指導がよかったからといって、普通の主婦がここまで書けるとは思えないから、おそらく普通ではないのだろう。 初演は2004年、金沢市民の手によって上演された...

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2009年1月24日 (土)

劇評「近代能楽集『綾の鼓』『弱法師』」

三島由紀夫の戯曲を二人の若手、前田司郎(「綾の鼓」)と深津篤史(「弱法師」)が演出する。 『近代能楽集』は、あちこちで上演されていることを目にしていたが、見るのは初めてである。最初に率直な感想を書いておこうと思う。 『綾の鼓』を見ながら、こんなことをしたら能=謡曲は台無しではないか、と思った。なんのために六百年も前に完成している物語を引っ張り出してこのような改ざんを加えなければならないのか。 三島由紀夫が古典としての能にくっつけた「近代」とはまさに三島が感じていた「近代」というものである。この「近代」はいかにも西欧流の文体と価値観を持っている。その文体はいわゆる翻訳調で「サド侯爵夫人」などの外国を舞台にした物語にはふさわしいが、現代日本の出来事として語るには(後で例を示すが)言葉が異様に「もたもた」している。 また、その価値観は西欧社会がまさしく近代になって獲得した「ロマンティック・ラブ」...

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2009年1月12日 (月)

劇評「枕草子が好き」

中目黒の山手通りから一本入ると平行して長い商店街があった。駅の後背地は住宅街だからああいう個人商店の集合体がいまだに成立している。地方ではめったに見られなくなった光景である。車で行ったから止めるところがなくて閉口した。あてずっぽうで再開発らしい超高層ビルの地下に停めたら、幸いそのすぐそばに劇場があった。近ごろではどういう加減か、東京中のあっちこっちに劇場ができて、結構なことだがなにをやっているのやら。新聞やTVの文化部も金をかけた芝居の記者発表とやらにはほいほい出かけて愚にも付かない提灯記事を書くのに、マイナーな劇場の取材なぞする気も無いのだろう。何が起きているのかさっぱりである。 大新聞もTVも自分の嗅覚を働かせて取材する記者などいないらしい。若者が「動物化」なら大企業の社員は皆「官僚化」、言い訳ばかり探して仕事は下請け任せ、自分じゃ何もしようとしないし、できもしない。どうなってんだ我が...

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